植物の想像力

どうってこともないと言えばそれまでだが 保坂和志星野智幸
もよく植物について書く作家だと思う 読んだ範囲で言えば星野
智幸『砂の惑星』『アルカロイド・ラヴァーズ』がそうだったし
保坂和志『この人の閾』がそうだ(保坂和志の本の装丁は 草花を
モチーフにしたものが多く美しい) 『この人の閾』の何が良いの
か もちろん一言で言い尽くせるものではないが 一つには 普通
に名の知らない草花雑草を 名を知らないままに書くところだ こ
れは 出来そうでなかなか出来るものではない 例えば桜を桜と名
指すことなく 読み手に伝えようとすれば だいたい 桜だとはわか
らないような代物にしか書けないものなのである こげ茶色の幹が
ごつごつしていて枝先には薄紅色の花弁をつけている その花弁は
一重五枚で 芯には黄色く花粉を蓄えている 今自分で書いてみて
確かめてみたが やはり何だかわからない それは個人の技量の問
題以前に 描写にまつわる一般的な傾向だと思う 描写をすれば
どうしたって対象を微分してしまうのである だから 簡単に全体
を名指そうとすれば 例えば「桜」で済んでしまうし 悪くすれば
「世界」だとか「存在」という言葉で何事かを全て語られたとい
うことにもなりかねない しかし普段私達はそのようにして生活し
ているのであって そうやってこそ 安定しもすれば安心しもする
のだが 安定だとか安心が私達に必要なように バランスを欠いた
ことぽっかりと空いた暗い穴のようなものを望みもすれば欠くこ
ともできないように思う(少なくとも私は子供の頃 暗い穴をのぞ
くのが好きだったし 秘密基地を作るように落とし穴も作って遊ん
でいたものである) 小説を二つの要素に分けると 一方に物語があっ
て もう一方に描写がある 物語にはどうしたって定型がある以上
これは私達に安定や安心を与えるものだ この点描写は逆に対象を
微分していくことで限りなくゼロを目指していく暗い穴を掘るもの
なのである こういうことは色んな批評家やら評論家と呼ばれる人
達が言っていることだから 敢えて回りくどく書くこともないとい
えばないのだがこの文章で問題なのは さしあたって 『この人の閾』
の良さの一つに名の知らない草花雑草を 名を知らないままに書く
ところで つまり私が言いたいのは 保坂和志のそういった描写は
ゼロを目指していく暗い穴を掘ることとは どうも無縁そうである
ということだ どうしてそうなってしまうのかがわからなくて だか
ら凄い 良い とそういうことなのである 逆に星野智幸の植物は多く
名指されている 少なくともそういう印象は受けた どちらかという
とこの人は正当に「文学」をしている 暗い穴を掘る人だ そう思っ
たのでした