現実は引き裂かれた煉獄である

簡単に天国を出現させる方法(映画から遠く離れて 第一回 笑)−『アワー ミュージック』の場合


初めに、小説ジャンルにおける『焦点化』『焦点人物』の概念を提出したい。映画ジャンルの理論は、不勉強なので。しかし、これからする話には妥当すると思う。『視点』という概念には、曖昧なものが含まれている。一般に『視点』とは“point of view”、語り手の立っている位置のことであるという理解がなされていると思う。しかし、“語っている人”と“眺めている人”の位置は、必ずしも一致するものではない。語り手は、別の人が見たことを語る場合もあるのである。そこで、ジュネットらナラティヴィストは、誰が語っているのかという問題と誰が眺めているのかという問題を『焦点化』『焦点人物』の概念を導入することで区別した。すなわち、『焦点化』という概念で“眺める”という行為を規定した。ここで言われている“眺める”とは、語ることにほかならない。そして、『焦点人物』という概念で“眺めている主体”を規定したのである。次に問題になるのが、『焦点人物』のいる位置である。すなわち、『外的焦点化』と『内的焦点化』の区別が問題になる。『外的焦点化』とは、焦点人物が物語の外側に位置する場合を指し、『内的焦点化』とは、『焦点人物』が物語の内側に位置する場合を指す。以上の理解は、主に『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』に負うことを明らかにしておく。


『アワー ミュージック』において、天国はいかに簡単に出現し得たのか。このことを記述するのが本文の趣旨である。① 天国前夜 映画物語内で、男(ゴダール)が既知である若い女性(オルガ)が死んだらしいということを電話で聞かされるシークエンス。中東のとある映画館で自爆したニュースが届いたらしい。とはいえこれはあくまで、噂の域を出ない話。ただ、男はその話を聞かされるだけなのである。しかし、我々観客は、天国前夜、煉獄が明ける前に若い女性が「世界の和解のため」に死ぬだろうという予感を十分抱かされてもいる。この天国前夜のシークエンスでは、ゴダールに内的焦点化が起こり、またゴダールという焦点人物と焦点化のレベルは一致しているのである。ともあれ、はたして若い女性は死んだのか。そのことは、次の天国篇で明らかになるだろう。② 天国 映画物語内で、死んだはずの若い女性が平然と画面に姿を現す。彼女は森の中を疾走する。煉獄でも疾走していた。だからあたかも、天国は煉獄と地続きのようである。いや、彼女が死んだのがただの噂に過ぎないならば、ここは煉獄そのものなのではないか。天国を存在させることはできないのか。世界は和解しえないのか。しかし、我々観客は物語のナレーションの不自然な声を聞く。この声がどこから響いてくるのか。映像のレベルでは、若い女性が焦点人物である。つまり、内的焦点化がとられている。しかし、焦点化、すなわち“語り”のレベルではどうか。映像の焦点化(“眺める”)レベル(映像の“語り”のレベル)と、ナレーションの焦点化(語り)を分けて考えたい。映像の焦点化においては、若い女性が眺めていると言っていい。この点で、焦点人物と焦点化のレベルは一致していると考えよう。だが、ナレーションのレベルでは不自然な声がどこから響いてくるものか判然としない。あるいは、若い女性の内言かもしれない。だが、それは我々観客に若い女性の内言としては響かず、物語外から聞こえてくるように響きはしないか。そうであるならば、すでに天国においては若い女性のイメージはスクリーンに光の束として映じられているのみで、すでに彼女は物語内から消えた、すなわち死んだものとみなされるべきだろう。③ 現実 では、物語外から響くこの声は何か。言うまでもなく、彼女は物語外に位置するカメラ、いや我々観客のレベルから語りかけている。ちょうど、キアロスタミが『オリーブの林をぬけて』のラストで、映画が現実と地続きであることを証明してみせたようにである。ヒッピーと兵士が共存する牧歌的な共同体の光景に我々観客が目を奪われているこの瞬間、天国というのは彼女と同じ位置で映画に見入っている我々観客がいるこの場所に出現したのである。


映画は許されるのか?(映画から遠く離れて 第二回 笑)−やっぱり『アワー ミュージック』の場合


映画は繰り返し殺戮のイメージを利用してきた。地獄篇の十分間は、映像の快楽と共にこのことをよく教えてくれるものである。映画芸術と言っても娯楽であり、消費財に過ぎないということは、ホークスについての闘争的な批評で知られたゴダールなら熟知しているはずだ。ゴダールは、商業ベースで長いこと映画作家を続けているのである。娯楽、消費財がどこかで戦争を糧にせざるをえないというのは直感では、我々誰しもが了解するところだと思う。そして、こと映画においては、このことを事実として目の当たりにせざるをえない。たとえば『プラトーン』から戦争批判のテーマを読み取ったところで、いやおうなく当の戦闘シーンに魅了されてしまうのである。だから、映画を観ることは作ることと同じくらい戦争を糧にしている事態に加担すること、引いては戦争を肯定することでさえある。ある種のミリタリー・マニアの心情を考えるのがわかりやすいかもしれない(もちろん、すべてのミリタリー・マニアが戦争を肯定するのだとは言っていない)。映画作家ゴダールの悩みを我々は共有している。すなわち、映画を作ること/観ることは、戦争に加担することなのではないか。誰しもが、みないようにしてきた、みないようにしたい事実、現実があえてゴダールによって提起されているのである。果たして、映画は許されるのか。ゴダールは煉獄篇で二つのイメージのことを言う。すなわち、イメージには相反する二つのイメージが存在する。これは、映画のアナロジーであり、同時に現実のアナロジーでさえある。イスラエルパレスチナは同じ土地に存在すべき国家だった。しかし、帝国列強の国際政治の犠牲になったという歴史は同じである。同様に、映画の歴史は同じだが戦争批判の映画の歴史が戦争に加担した映画の歴史でもあった。二つのイメージは、もちろん物語内でも語られる。ネイティブアメリカンパレスチナの詩人の画面の登場は、すべての歴史にはもう一つの歴史が語られることを示している。しかも、ネイティブアメリカンが物語内における現実の表象なのか、はたまた想像上の表象なのかも判然としないありさまである。映画監督を志す若い女性(オリガ)と映画監督であるゴダールもまた、「二つのイメージ」という言葉に集約されるものだろう。天国篇において、煉獄篇で姿を消した若い女性が現実=天国のレベルからスクリーンに投影された自身のイメージに声を投げかけるとき(ここでも、声とスクリーンのイメージの「二つ」である)、同様に煉獄篇で姿を消すことになった映画作家ゴダールは、カメラという一個の眼になって、いや映写機そのものになって我々観客に死んだはずの若い女性がヒッピーと兵士の共同体を駆け抜けるという天国/終末的なイメージを投げかける。はたして、映画は、我々は許されたのだろうか。現実の観客席で出現した天国は、また地獄かもしれない。だから、安直に許されたと思うのは差し控えることにしよう。我々のいるこの現実というのは地獄と天国の狭間、引き裂かれる煉獄である。『アワー ミュージック』が稀有な作品だとすれば、映画の天国性と地獄性を映像と音楽でことさら際立たせて(地獄だけでは、地獄は『プラトーン』のように快楽の天国に堕してしまう)、その当の構造、引き裂かれる煉獄を浮き彫りにしようとしたところかもしれない。