返事

「話者の態度」を問題にしないで「聞き手の態度」だけを、それも結論として「とにかく聞け」というだけにするなら、僕はそんな態度は不誠実だと思う。君は「聞き手として誠実」であることが、そのまま対話の片割れとして誠実である、と思いますか?(Q1)


誠実? なぜ、誠実ということが言われるのか、正直ピントこない(後で、再び問題になるだろう)。漠とした言い方になる。が、要するに、話者の立場からコミュニケーションを捉えたときに、存在する絶望については認識している。しかし、そこまで私の理論的な認識は及んでいない。わたしは、それを”実践”の形で考えていこうと思っていた。この点でも、あなたとの対話は実に有意義でした。感謝している。


理論と実践は同じであるかもしれない。が、わたしはとにかくそれを理論とは別の形式で考えたい。わたしの実践は、常に個別の言葉になるのではないか? この直感に従いたい。少なくとも、普遍的な理論で話者の絶望を考えることはできないと思っている。保坂和志さんも、大体同じことを言うのではないか。


あなたは、個別の言葉が問題にされる話者の絶望を問題にしているのだと言っている。わたしはそのように理解した。話者の絶望と聞き手の倫理を、如何に融和させるか。我々の今回の対話のテーマを総括すると、以上の文言に集約されるのではないか。あなたは、恐らく以上のテーマを「話者の…誠実」すなわち、話者の倫理として提出しようとしているように思える。「話者の絶望と聞き手の倫理」であれ、「話者の倫理」であれ認識としては、当初からお互い抱いてきた領域を一歩も出るものではない… 


しかし、話者の絶望とわたしが分けて言うとき、主にわたしは話者の立場から考えるコミュニケーションの問題を、個別の言葉、要するに実存的な問題に回収してしまっている。この点、あなたが話者の倫理と言うとき、ある意味秘教的な実存を問題にせず、あくまで普遍的な言葉で「話者の立場から考えるコミュニケーションの問題」を捉えようとしているように思える。だが、普遍的な言葉を「話者の立場から考えるコミュニケーションの問題」に対応させることで、「聞き手の倫理」が破棄される危険があるとわたしは考えた(事実、「相手の文脈を毀損するのもやむをえない」とあなたは言った)。


とまれ、あなたの言葉の先を読もう。

聞き手に徹する自由はもちろん常にあるだろうと思う。その自由を侵害したいとはとくには思わない。


しかし、矛盾する自由として、相手に返事を期待する自由も在り得ると思う。それも性急な感情を伴って。その感情は報われないかもしれないけれど、しかし「期待する自由」は考えられてもいいと思う。必ずしも報われないことについても思考する必要はあるだろう。


相手が「報われない可能性のある態度」をとるとき、自分がどう対処するのか、というのが問題なのよ。


ここに語られているのは、あなたの感情だろう。あなたの「感情」、それは実存的な問題に回収されるべきなのでは? 普遍的な言葉で語ることはできるのか? 言うまでもなく、わたしが問題にしたのは、あなたの聞き手としての態度です。だから、普遍的な言葉で語り得た。いや、違うか。少なくとも、あなたにあなたの聞き手の態度を言うことはできると思ったから、言った。ただ、繰り返しになりますが、あなたにおいては「話者の絶望と聞き手の倫理」と(わたしにおいては)分けて考えるべきところを、「話者の倫理」と捉えているので、本来、あなたは話者の問題を考えているものが、わたしにはあたかも聞き手の問題を考えている、そしてあなたの聞き手としての態度は、一言で言えばわたしの信じる「自由という価値」に「倫理的」に違反するものであったので、わたしは思わずそれは違うんじゃないかと言うことになった。もちろん、わたしが「思わず」と言ったところで、これはわたしの信念の根拠のない押し付けに他ならず、したがっていかなる点においても、本来わたしはあなたに言うべきことがない。むしろ、言ってはならない。わたしの考えを推し進めれば、そうなる。だからあなたが、わたしを権威主義と言ったのは非常に正当で、たとえばドイツにおいてはナチスを賛美する言論は自由を侵害するものだから、かかる言論の自由については、たとえあまねく言論その他表現の自由に自由という価値そのものを保障する機能が認められるほどに重大なものであったとしても、ナチス的言辞に言論その他表現の自由そのものを毀損する恐れが認められるので、「ナチスを賛美する言論」に限っては国家(という権威の名のもと、という暴力装置によって)によって規制される(戦闘的民主主義)。しかし、日本においては少なくとも名目上はいかなる言論その他表現の自由も認められる。これは繰り返しになるが、表現の自由に自由という価値そのものを保障するという重大な価値が認められるためである。わたしが、「相手の文脈を愛せ」と言うとき、結局わたしは戦闘的民主主義の立場を採用しているのである。しかし、それは国家や憲法という権威が無ければ許されない態度なのだろうか? 表現の自由及び自由そのものの価値に重きを置けば「許されない」(それに国家や憲法という権威に関しては「ナチス的言辞」か否かの認定は、当然慎重になされるという事情は考慮されるべきだろう)。


しかし自由そのものに価値を置くから、表現の自由を毀損する恐れのある「ナチス的言辞」に関して、国家ではなく、市民(胡散臭い言葉だ)が批判、批評を加えるのはどうか。市民(そして市民と言うのは概ね、権威を楯にした知識人)の自由という名の下に、「ナチス的言辞」の自由が侵害される。ここには、少数者の言説が抑圧される構造がある(お? やっと、アワー・ミュージックの話になりそう? 文学ならジュネ)。


「相手の文脈を愛せ」は、言表内容において少数者の言説を保護し、言表行為においては少数者の言説を抑圧してしまう。うーん。これは、『存在論的、郵便的』の理論圏内かな。後半が意味不明で読めなかったのだよねえ。読むのは大変だなあ。

君はどうして僕に忠告をしてきたのだろうか。君は僕の態度に「閉じたコミュニケーション」を見てとったらしい。僕はこの「誤解」について弁解する必要があると思う。二つ理解して欲しい。「僕は閉じたコミュニケーションとは関係ない」「閉じたコミュニケーションなど存在しない」言うなれば「相対的に閉じたコミュニケーションであっても、絶対的に開いている可能性に向けた態度はありえる」それを僕は理解している、ということ。


その「絶対的に開いている可能性」、つまり「閉じたコミュニケーション」というモデルを否定する現実を、「理念」的でしかないもの、その非現実性を、君が認めることができれば、僕が言う「サービス」へのナイーブな期待というのは、単なる「甘え」ではなく理解してもらえると思うんだがどうだろうか(Q2)


うーん。整理しましょう。まずですね、絶対的に閉じたコミュニケーションのモデルは現実は存在しない。現実に存在しないモデル、理念で現実を批判しても意味がない。とあなた言うわけだ。ここで、あなたの言う現実に存在しないモデルというのは、恐らく不正確で「理念として」「原理的に」絶対的に閉じたコミュニケーションというのは存在しないとあなたは言っているわけですね。


そうではなく、「理念としては考えることができたとしても、現実に存在しない以上、そのような理念をもって現実を批判しても仕方がない」と言うなら、それは違うということは以前に説明しました。現実に存在しなくとも、相対的にでも閉じたコミュニケーションと言うものが考えられるとすれば、わたしはかかる「相対的に閉じた」点、すなわち現実のある部分を理念として抽出して批判しているわけです。現実をむやみに理念に取り込まないのは、一言で言えば自由という価値を保障する為でした。あなたはかかる方法に関して構造主義的である、あるいは静的であるという批判を行ったのですが、それはわたしの方法の性質を言い当てているだけで、その実無価値な内容です。しかし、あなたがそうした言葉で言いたかったのは、要するに「話者の倫理」ということなのでしょう。この意味で、あなたの言っていることは分かる。しかしわたしは、かかる問題を話者に関しては「個別の言葉」として実存的な問題に回収し、これから聞き手の問題を分離して「話者の倫理」すなわち「相手の文脈を愛せ」という風に構成するわけです。わたしがあなたに「甘え」というのは、それがあなたの「個別の言葉」、あなたの実存としての感情が問題になっているからだと看取したからです。倫理に「甘え」という言葉は妥当しないが、実存、すなわち生き方には「甘え」という言葉が妥当する。


さて、「理念として」「原理的に」絶対に閉じたコミュニケーションというのは存在しないとあなたが言うならばどうなるか。この点に、わたしは異論はありません。むしろわたしは、あなたの考え方が、閉じたコミュニケーションを想定しているのではないかと言っているわけです。これは再三指摘してきたことです。

Aにとっての「1」と、Cにとっての「1」は厳密には違うと考えています。加えて言えば、Bの文脈としての「4」とCの文脈としての「4」とは違う。だから、Aが「4」を文脈として組み入れることができるかどうかは、おっしゃるとおりアクシデントを期待するしかないだろうね。これは了解できてると思う。


例えば、あなたがこのように言って初めてあなたは開かれたコミュニケーションを想定し得たと、わたしは考えている。


あなたの言う「僕は閉じたコミュニケーションなどとは関係ない」とは、わたしは思えなかった。

君の僕の態度についての見解がとにかく的外れだと僕は思うんですよ。たとえば、僕は「共通点を持て」とは言っていない。しかし君はそれを仮定して僕に「不遜だ」と言う。見当違いだよ。


分有って言うんだよね? しかし、「相手の文脈を毀損しても構わない」というのに関していかがでしょう。わたしは、かかる言葉からあなたが「共通点を持て」と言っているのだと思いましたが?

相手の文脈を愛する、それはわかると言っているでしょう。それについてどうしたらいいのかを考えたい、と言う僕と、それをただ提示するだけで満足する君と、どっちが硬直しているか、君にはわかりますか?君が僕の文脈を愛するなら、君はただ提示するだけではなく、僕から何かを汲み取るべきだろう。僕は、君が受け取りやすいように硬直しているんだから、君から受け取るのは硬直したテーゼだけなんだから。そしてそれは君が同調してくれているので、もう十分に済んでしまっている。あとは君が自分で吐いた唾を被ってくれればいいわけですよ。ギャンブルで言うなら、君は勝ち逃げをしようとしている。だけどこれがギャンブルの話ではないのは自明だろう。誠実さや愛の問題なんだから。


本当にねえ。「自分で吐いた唾を被れ」ですか。


被ります。負けることが、わたしの真骨頂ですよ! 自由という価値を個別には信奉することはできるが、他人に了解させることは困難である。わたしはこのことを学んだ気がします(あ、別にあなたが自由という価値を信奉していないとは言ってません)。あなたとの対話のおかげで、初めてポストモダン的言説の意義が見出せる気がします。たとえば以下の東さんによる紀伊国屋書店人文書紹介文のこの部分。


偶然性・アイロニー・連帯−リベラル・ユートピアの可能性 リチャード・ローティ 岩波書店

ポストモダンの本質というのは、簡単に言うと、「自分が信じていることを人に伝えるときに、それを皆が信じるべきだと言えなくなるということ」


これも、わたしは読んだ方が良さそうだ(そして、これを課題図書にしますか?)。


ここから先は、わたしにとって今はまったくの未知の領域。あなたが、真に問題にしている領域の話になると思われます。しかし、唾を被っているだけなので、もはやあなたの応対は期待しません。仕事も忙しいだろうから、気が向けばお返事くださいな。ただ、便宜上「あなた」という呼称等これまでの慣用でいきます。これは許して欲しい(非常に気持ち悪い書き方になりますが 笑)。


さてとりあえず我々の対話に話を引き戻せば、話者の問題を実存的に捉えて「絶望」するのではなく(なお、わたしはあくまで絶望から常に始めることができればと願う)、「話者の倫理」と捉えることで、言わば「自分が信じていることを人に伝えるときに、それを少なくとも相手は信じるべきだと言えるようになる」。恐らく、理論的な可能性はかかる点に存するように思う。「聞き手の」倫理として考えられる問題を、あらかじめ「話者の」倫理に取り込むことで、話者は聞き手の問題を考慮することなく、話者の倫理に従った範囲で、自分の信じたことを言えるようになる。話者の倫理とは、そのようなものになるでしょう。従って、「話者の倫理」において考えられるべきことは、「倫理」の内実ということになる。かかる内実にかつては宗教的規範や共同体的規範が当てはめられていたのは想像に難くない。最近では、公共(ハーバーマスですか?)とか言うのだろう。名目はどうあれ、「具体的な規範」(あなたが言いそうな、或いは言っていたような言葉でしょう?)の考案が肝要である。それは、例えばドイツの裁判所において「ナチス的言辞」か否かを判別する際の裁判所で用いるべき、厳格な事実認定の判断基準のようなものになるのではないか(素朴かもしれない。しかしとりあえず、手持ちの言葉でわたしは話を進めているというのを了解して欲しい)? 実際のところどうなのかは知らないが(調べなくてはならないか)図柄にハーケンクロイッツを用いてはならないだとか、いかなる場合、文脈においてもヒトラーに関して賛美の言葉を使用してはならないとかそういうものなのではないか。しかし、以上の規範を遵守する範囲でナチスに関する言説は許される。たとえば、ナチの刑法典に関する研究は許される。そういうものなのではないか。 


だいぶ、あなたの実存的関心からは逸れているかもしれない。何よりも、あなたは「話者の倫理」において、あなたの実存も同時に問題にしていたのだ。この点で、誠実という言葉が再び問題になる。

戦争に行かなきゃ戦争のことは分からないと言うが、戦争へは容易に行けないし、出来ることなら行きたくないこの俺の立場はどうしてくれるんだ?


わたしは、あなたがそのようなことを主張しているのではないかと問い、あなたの同意を得ました。そして、あなたは次のように言いました。

だから君が「戦争」を例にしたのは正しいね。もっとも僕は戦争というのは戦場だけで起きているものではないと思うけど。やはり「ここ」で止められないから、戦場で銃が火を噴くのだと考えていますよ。やっぱり、シリアスに考えるなら、「それでいいでしょう」とは思えないです。自分の利己的でその場限りの立場としては「それでいい」と思わなければやっていけないけれども、だからといって、それを理想とすることはできない。指針としても、「それでいい」と思えない場面を考えるべきだと思うよ


ここに、あなたの誠実が伺えると考えます。問題は、ほとんど『ゴーマニ(省略)』と同じレベルにきているかもしれない(涙) が、耐えよう。話を進めよう。「(戦争に行けなくても仕方がないと言うのは)自分に利己的でその場限りの立場としては”それでいい”と思」うことができない。思えない。かかる点にあなたの誠実が存するのではないか。わたしは特に「話者の絶望」として話者の問題を実存的ないし個別的な問題として理解しているが(あなたの言うように、この限りでその先を考えていない)、あなたは、かかる実存的ないし個別的な問題を「話者の倫理」として考えている。誠実という倫理的な言葉で語られているのは、倫理であると同時に実存的ないし個別的な問題なのである。かかる実存的ないし個別的な問題(要するにそれは個人の感情に集約される)を、理想とする必要はないのではないか(あなたは「聞き手の倫理」を実存的な話者の問題に回収するために、同時に理想を問題とせざるをえなかった)? いや、あなたの人生の「指針」としてはあってもよいものだろう。しかし、普遍的にこれを語ることができないのではないか? 理想という名の下、何かが普遍的に語られた瞬間に、それはあなたが実存において個別的に考えていたものとは違ったものになるのではないか? 「話者の倫理」には、以上のような問題も存するように思う…


この点、宗教的規範や共同体的規範が倫理の内実として認められれば、神の名の下に戦争に行くという普遍的目的が達成されかつ、神の名の下に戦争に行く己の感情も保障される、或いは、家族や隣人の為に戦争に行くという普遍的な目的が達成され、家族や隣人のおかげで己の感情が保障される。


宗教や共同体というマジックがなければ「話者の倫理」は成立し得ないのではないか? 

相手に共通点を「持て」と言うことは果たして可能だろうか。それは君に問うことは無意味だろう。君はわかっている。


しかし問いを発する必要は僕にはある。なぜならば、君はその問いについての答えを僕が持っていないと思うだろうから。共通点は二人の間に「見出す」ものだし、共通点が「ない」なら、それはただ「ない」。しかし「持てと言う」ことは可能だよ。言わない自由もある。
共通点を探すこともできるし、作り出すことも出来る。だんだん暴力的な匂いがしてくるけど。


事実と行為の問題なんだろうね。君ならもっと良い言い回しができるだろうと思うので恥ずかしいのだけれど。自由となんとかとか、になるのかな。


ともあれ、こういう暴力と文脈の話は、だけど「難しい」として放置するべき問題じゃなくて、まして「語れない」と片付けるべき問題でもないと思う。コンスタティブにパフォーマティブで、パフォーマティブにコンスタティブで、どちらにも落ち着かない、非常に重大な問題だと僕は思う。


僕はそういう話をしたいのよ。たとえばゴダールの『アワーミュージック』について。


分かっています。何とかしようとしている。しかし、ある種の疑いは捨てきれない…(何かは敢えて問わないでください)