曰く、
『質問1:相手の文脈を愛する、とはどういうことか。

 例えば、相手に無視された場合、
 自分を無視する相手を愛し、そのまま無視を受け入れるということなのか。
 そして君はそういう意見を僕に提示してみせたんだね。』


違うよ、無視された場合じゃない。他人に価値観を押し付けられた際の話だったと、わたしは理解しているよ。他人の価値観を押し付けられたときに、いかなる態度を取るべきかということを問題にしたんです。ゴダールを全部観ろと言う相手に対して、あなたは相手があなたの文脈なり価値観を無視していると考えているのだね? わたしは、あなたのかかる態度こそ、「相手の文脈を愛してしない」と批判したいのだがね。つまり、相手が価値観なり文脈なりを押し付けてきた際に、そのことを相手があなたの文脈を理解をしてくれないのだという問題へ変換するあなたの理解の仕方、態度を問題にしていたのだよ。たしかに、仕事で忙しけりゃ、よほど酔狂でもなきゃゴダールなんか観れっこないよ。仕方ないじゃない。誰でも観れるわけじゃないでしょ、ゴダールは。つまりさ、よくライターなんかが書く文章だと思うけど、美味いものを語るためには、美味いものを知らなければならない。って言うじゃない。だけど誰でも、たとえばビンテージもののワインなんかを飲めるわけじゃないわけで。だから、ビンテージもののワインに関するルポは、ビンテージもののワインへ顕在的にしろ、潜在的にしろ興味があるひとにしかアピールしない。上手いライターになると普段興味がないし、生活水準から考えればちょっと手が届きそうにないような、そんな読み手にもビンテージワインの素晴らしさアピールする文章を書くだろうし、ビンテージワインの素晴らしさをアピールできずとも、読み物として面白い文章を書くだろう。しかし、だね。忘れてはならないのは、誰でもビンテージもののワインへアクセスすることができないのと同様にゴダールへも誰もがアクセスできるものではないと考えるのが「自然」だということ(毎日遅くまで仕事のあるひとへ、さあ今からゴダールの作品を全部観ろというのが、酷だといえば酷ですよ。ふだんの営みを完全に放棄しなければならないだろうからね)、ビンテージワインにアクセスできないひとへ書かれる「入門」を謳ったルポなりは当然書き得るし、それで簡単にはビンテージワインへアクセスできないひとにビンテージワインの価値なり、文脈なりをビンテージワインへ容易にアクセスできるひとと「共有」することはできるよ。ゴダールといえども、ワインと同じ消費財と同じなんでこうした言い方をしたけど、たとえば、ゴダールを山谷の貧困と比べてもよいよ。山谷で煮炊きしてその日暮らしをしている労働者の現実を誰もが理解するわけじゃないが、しかしその理解に向けて“文脈の共有を目指して”書いていくことはできる。だけどね、ワインは飲まなきゃわかんないし、山谷(の貧困)は行かなきゃわかんないでしょ。それは、確かなことだと思うがね。…いや違うか。難しいところだ。戦争に行った奴が、一番戦争を分かっているとは言い切れない気がするからね。うーん。戦争に関するたとえが、あなたの態度を語るのに最も適しているな。「戦争に行かなきゃ戦争のことは分からないと言うが、戦争へは容易に行けないし、出来ることなら行きたくないこの俺の立場はどうしてくれるんだ?」ってことだよね? あなたが「無視している」という言葉で語りたかったのは? この理解なら、あなたが言いたいことは分かる。ただ、わたしは一貫した態度を取って、かかる事案に関してはただ、首を垂れるということしか知りません。つまり、「戦争に行っていないわたしは確かに戦争のことを分かっているとは言いがたい、それでもそんなわたしには言えることはあるだろう」以上のような態度をとるわけです。「戦争のことを知らないひとにも戦争の文脈を共有してもらうための努力」が必要だというのは認めますが、しかしそれは「ビンテージワインを知ってもらためにはビンテージワインの文脈を共有してもらう文章」を書くのだと言うのに似て、つまり相手のサービスを前提にした態度だと感じられてなりません。要するに、マスコミのコマーシャルな情報の提示の仕方に慣れ親しんだ結果、「戦争に行かなきゃ戦争のことは分からないと言うが、行けない、行きたくないこの俺の立場はどうしてくれるんだ?」という問いが生まれる。戦争に行かなきゃ分からないとことさら言うのもマスコミだし、それで戦争を知りたいという大衆の気持ちを惹起させたところにつけ込み、そして戦争報道で儲ける(もちろん、個々のレベルでは立派な使命に駆られた記者もいるだろうし、そういうひとへは敬意を払うが、これは制度の話なのです)。けっして、戦争のことを知らなくても良い、相手のことを知らなくても良いということを言っているわけではありません。そうではなくて繰り返しますが、あなたのことは相手に「理解」してもらわなくても良いのではないかということを言っているわけです(しかもあなたの言う「毀損」であれなんであれ、いやがおうでも理解はされます)。あなたが言うだろう「相手の理解」というのは、相手のサービスであって、理解じゃないと思う。これも繰り返しになるかもしれないが、最終的に理解は直感によってしかなされない。たとえ、相手がどれだけあなたのことを尊重したとしても。


『しかし僕はそれは受け入れられない。もちろん、常に受け入れられないというよりも、こっちがせっかく相手に興味を持っているのに、そういうシーンで相手に興味を持ってもらえないとすれば、自分についてもたれているイメージを改変するか、あるいは自分についてもたれているイメージの扱いを改変してもらうか、そのどちらかしか考えられない。無視されても構わない相手に興味を持つ事だってあるので、そういう場合には君に批判されるまでもなく無視を受け入れるけれども、それは相手の文脈を愛したことにはならないだろうと思う』


だいぶ、話が逸れてきたように感じるが。相手にあなたをアピールしたいなら、あなたの努力だけが問題にされるのでは? で、あなたは頑張るにも限度があると言いたいわけだね? うーん、これは辛いね。でもさ。ゴダールは全部観られません! だけど、このまえの『アワーミュージック』についてはこんな風に思いました。っていう語り方もあるわけだからさ。良いじゃんね。


『自分が誰かに対して興味を持っているときに、相手が自分を無視している場合、相手の文脈を愛する方法は、自分が無視されていることを受け入れるということだけなのか』


「相手の文脈を愛せ」というのは、相手の発話行為があって初めて成立するものとわたしは考えてきました。わたしがずっと言ってきたようにですね、主に、相手が価値観を押し付けてきたときにいかなる態度をとるべきか。かかる問題を考える際の批判的理念だったはずです。だから、この質問には答えられません。しかし、あなたはこういうことを言うかもしれない。「相手の文脈を愛する」とは、「相手の文脈を考慮に入れて発話する」、つまり「相手の立場を尊重して話す」ことだったのではないかと。だから、念を押しておきます。「相手の文脈を考慮に入れて発話する」ような態度をもってわたしは「相手の文脈を愛せ」とは言っていません。そうではなくて、多少乱暴な言い方になるが「あなたの文脈を考慮に入れないで発話する」相手へ応対する態度として、“自分の文脈を考慮に入れてくれない”うんぬんとごねずに、相手の文脈を受け入れてみれば? と言っているわけです。ゴダール観るのしんどいって言ったらそれまでの話だよ。この理解で構わない。


『君の批判は、僕の能動的な期待や行為について向けられており、結論としては「受動的であれ」というものになっているように読める。この理解は正しいのだろうか。』


えーと、正確に言いましょう。「受動的であれ」なんて言ってないよ。発話じゃなくて、あなたが話を聞くときの態度をわたしは問題にしていたつもりだよ。


『「相手の文脈を愛する(理念・理想)ためには」という断りがまずされていることにも明らかなように、「理念(理想)を現実に即するための指針・態度」ということになります。ここは似ていますがベクトルが真逆なので注意してください。』



ベクトルが逆というがね、「現実に即した理念」が「理念に即した現実」であれば良いんだが、この「理念に即した現実」を目指すための「指針・態度」というのは、結局「理念」の域を出ないでしょ。と言っているわけですね。


『君が言うように、変なおじさん(マルクス?サンタクロースに似てるよね)が「価値」を見つけたとすれば(というふうに理解するのは危ない気がするのですが、、、)それはまず交換価値が使用価値から概念的に区別されて、交換価値など存在しないということで、市場から労働の場へ問題を移そうとしたということなのかも知れない。』


いや、マルクスは交換価値を存在しないなんて一言も言ってないよ。しかし、交換価値の謎を考えて行き着いた先が貨幣の謎であり、貨幣には積極的に言い当てるこの出来る価値なるものなんかないのだということに気づいてしまったわけだね。


マルクスがどう考えていたのか、というのは、
来歴のワンシーンにすぎないだろう。
マルクスと同時代、あるいはマルクス以前に、
そしてもちろんマルクス以降、あるいはマルクスとは関係のない文脈で、
「価値」ということばがどのように使われてきたのか。
それを考慮しなければ、
「価値」とは何かを説明することはできないんじゃないか。
すべてのシーンを余すところなく列挙せよというのではなく、
ただ、マルクス的使用法にこだわるあまりに、
マルクス的でない「価値」の理念を、とりこぼしたり、
とりこぼしていることそのものに注意を払わなくなったりしたのでは、
対話の仕方としてあまりに杜撰だと思うんですね』


いやー、杜撰ですか(笑) 面白いね〜、あなたは。まあ当然、たとえばマルクスの価値とケインズの効用は違いますよ。ケインズはあまり、価値とか言わず代わりに効用と言ったっぽい。当然、別の問題をかかる概念は問題にしているわけで。マルクスが問題にしてのは、きっとあくまで資本主義だからね。ケインズアダム・スミスは違う。彼らが分析したのは市場の仕組みでしょ。このとき、たとえば古典経済学で価値というものを自明のものとしているのは当然でしょ。まあ、わたしが使用してきた「価値」という言葉については今までの説明で了解いただけているのでは?


『あるいは、「マルクスが言った『価値』」を話題にしたいのなら、それは君がどのように「直感」(というか勝手に解釈)するに至ったのか、君が読んだマルクスと、その解釈について開陳すべきじゃないのか』


してるじゃん。


『君はまるで自分の解釈や、自分が読んだところが、誰でも勉強すれば触れることができるし、
理解できることのように書くけれども、それは本当なのだろうかと僕は疑っている』


できるよ。柄谷行人でも岩井克人でもいいんで、読めばいいんじゃない? 古典経済学の記述がある学部教養レベルの教科書でも良いし。わたしは言いたいことがだいたい書いてあるはずです。これらに書いていたことで、わたしの記述と異なる部分があれば、わたしが誤っていると思ってくれてかまわないよ。その記述の方に訂正しますよ。


『「共感」どうこうではなくて、君の「直感」の正当性について問い質しているわけですよ。』


あとは、あなが実証してください。


『ともあれ、使用する場面でも、交換する場面でも、僕は「価値」ということばが必要になると思う。そのことばが必要とされている場面があるというだけで、僕はもうそこに「価値」ということばが名指す何かがあると言っていいと思う』


うん。そうだね。だから、何度も言っているように、価値は自明に存在しないといっているわけで、空間を“批判”によって見出すことができるように、価値をある種の手続きを辿って言い当てることはできるよ。わたしは、そうしたことを前回までの記述でさんざんやって来たはずですが? 


『日常的な使われ方を指してそれを「通俗的誤解だ」と言うのは容易い。中学生でも出来る。ではより正確な理解とはなにか。それを提示できなければ、なんにもならないんじゃないかと思うのよ』


したでしょー。今までのを読んでよー、あれで駄目だったら本読んでー


『そして、こと貨幣が議論されるとき、使用価値と交換価値は区別が曖昧になる。曖昧と言うよりも、互いに入れ子構造になっているのではないかと思うんですね』


意味わかんないです。


『僕の言う「文脈」は、例えば、
Aという人の文脈として、指摘することのできる文脈1,2,3があったとします。
この「1,2,3」を指して、「Aの文脈」ということができます。
また、Bというひとの文脈として、指摘することのできる文脈4,5,6もあるでしょう。
この場合、「Bの文脈」は文脈「4,5,6」となります。
AにもBにも付き合いのある別の人Cを考えた場合、
Cの文脈として「1,4,7」というのを考えることはもちろんできますね?
この場合「Cの文脈」は「1,4,7」です。

このCの前に、Cとは関係のない(文脈を共有しない)Dという人が現れたとしましょう。
彼の文脈を仮に「α、β、γ」とします。

ここで注意して欲しいのは、
「文脈」というのは
指摘し尽くすことができるものではないという点です。
先に挙げたA/B/C/Dの4者について
指摘することができる文脈をいくつか挙げたわけですが、
例えばAとBとのあいだに指摘できた文脈に共通するものはありませんが、
ここで絶望する必要はないという程度のことです。
それこそ、「Cと知り合いである」という要素を文脈として考えることで、
AとBとは文脈を共有しうる、と言えるだろうということです。

文脈、ということばを、
特定の宗派やことさら事件性のあるイベントの経験、
に限定する必要は僕は理解できません。

さて、で、CとDです。
いっけんしたところ文脈に共通点のない二人ですが、
たとえば二人に言語的な共通点はありえないでしょうか?
外見に相似するところはないでしょうか?
生物的な共通点もないでしょうか?
それらの共通の「要素」が即「文脈」になり得ると言うわけではありません。

いわば「要素」の持続が「文脈」になると僕は考えています。

たとえばAとCは「1」と呼びうる文脈について共有していますが、
その文脈についてはそれぞれの他の文脈から別々の触れ方、
別々の理解の仕方をせざるを得ない。
ここで反発が起きるだろうし、逆にその反発の和解の可能性もある。

僕が「文脈の毀損」というとき、
この「反発」があり、おそらく「和解」も含みます。
文脈というのは、僕の理解では、毀損されても滅んだりはしない。
与えられている要素を組み替えて持続していくものだと思います。

AとBであれば、たとえばCについて文脈を共有しているわけで、
この点で反発が起きるかもしれないし、なんらかの和解の可能性もある。
「和解」を好意的に了解できないときには
それを「毀損」と呼ぶこともできると思います。
(「毀損」を「和解」と呼ぶのはたぶん不適切なので、別の表現を考えたいところです)

かくして、
Aの文脈は「1,2,3、C」となり、Bの文脈は「C,4,5,6」となるでしょう。
(文脈も、言うまでもなく、このようにして入れ子構造を繰り返して持続していくので、
 つねに変動しているわけですが)

僕の理解している「文脈」、あるいは「文脈の毀損」というのはこういうことです。
(Q4への回答。Q3はどれだった?)』


いや、なかなかユニークな哲学かと。あなたのコミュニーケンションの理解はだいたい分かりました。しかし「かくして、Aの文脈は『1,2,3,C』となり、Bの文脈は『C,4,5,6』」
とは? わたしの理解だと、A「1,2,3,4,7」B「1,4,5,6,7」ということだけど、いいよね? A「1,2,3」につき、C「1,4,7」の1を共有していたから、Cを介して、B「4,5,6」固有の「4」を文脈に組み込むことができたのだと。これが、“理解”であると。いいよね? しかし、たとえ1を共有していたって、4がAの文脈に組み入れられるか否かは、まったくのアクシデントに他ならないのではないかとわたしは言っているわけです。AはCと1を共有していても、4は共有していない、要するにAの文脈にはないものなのだから、やはりある意味“暴力的に”AはCの4を受け入れることでしか、4を己の文脈に組み込むことはできないのであると言っているわけです。この点をどう考えますか? 第三者を介したコミュニケーションモデルも二項のコミュニケーションモデルと同じ。あまり、意味を感じません。


『要するに、僕の現実を知り、僕の態度や指針を知り、それでもなお、君が違和感を覚えるのであれば、代替案を提示して欲しいと主張しているわけだ僕は』


いや、わたしは批判の意味内容をあなたに伝わったなら、それで満足。これまでのほとんどの言葉は、この作業に費やされている言うことはできる。あとは、個人の責任において判断すればいい。


『ところで君が提示したモデル「閉じたコミュニケーション」というのは、僕の現実に即していただろうか?』


と思ってるけどね。


『それからQ2について。今回読み直して思ったのだけれど、「現実を追認」することの何がまずいんだろうか。』


前にも書いたでしょ。現実を批判するために理想を示そうとして、逆に現実と同じなってしまったら「批判」の意味がないでしょう。「理想」の意味がないでしょう。批判するのは、それが理想に照らし合わせて“悪い”からですよ。


『現実は現実として認識する必要がある。現実を正当に認識できない人間の理想は説得力を著しく欠くだろう。僕は強調したい。現実は認識されるべきである、と。少なくとも現実の変革を望むのであれば。現実を認識した上で、理想を語り、現実を変革していくこと。理想を語り、現実を考慮した指針や態度をもって、現実を変革していくこと。これが重要なんじゃないだろうか。』


うん。この話自体は正当だよ。


『君が「現実の追認に過ぎなくなる」ことを恐れているのは、「現実の追認」を恐れているのではなくて、それによって「理想の追求」を放置すること、こっちなんじゃないか』


いや、あくまで批判の視座という意味においてしか理想は意味を持たない。


『しかしここには「指針」「態度」の吟味が忘れられている。
ちょっと議題がずれているけれど、
これでQ2-1への返答とします。』


? わかりません?



『「ゴダールなら○○を観よう」とか
ゴダールなら何観てもいいんじゃない?」とか
今回の『アワーミュージック』はとにかく短かったこと、
最新作であること、
内容的にもことさらゴダール作品としても驚異的にとっつきやすいこと、
劇場ならではの音響的体験があり、それがまた非常に貴重であること、
とまあこういう話をしてくれるんならわかるし、
そういう話を僕は期待していたわけです。
(それだけではないけれど、とりあえず)』


だから、それは商業用パンフレットとかの文章。サービスだよ。


『それを「甘い」というのはわかる。
また相手にそういったことを期待するのは筋違いだというの正当だろう。
君の話がそういった指摘に留まるなら、この話はこれでおしまいです。』


そう、甘い。これでおしまいですね。


『君がもしそういった指摘を超えて、
たとえばゴダールは「文脈を飛び越える問題」を扱っている作家であり、
またそういった作家のなかでもとりわけ重要であり、
また忙しいとか疲れるとかいった世俗的問題と、
芸術や社会の問題とを寄り合わせた問題を提示してくる作家なのだから、
あるいはとりわけ『アワーミュージック』はそういった問題にことさら取り組んでいるのだから、
そういったことを議論したいという方向へ話が動いていくなら、
僕はそれはとても面白いと思う。』


まあ、わたしはこれ以上理論的な進展は望めないんでパス。十分です。


『君は「相手の文脈を毀損することは、
相手の文脈を愛することの反対だ」と言う。
果たしてそうなのだろうか。
君はまた「相手の文脈から排除されるという不利益」と言っている。
それは実は「不利益」ではないよね。
こっちの期待が叶わなかっただけで。
したがって、ここでの問題は、期待が叶わない場合の問題になる。
これは僕の現実であり、君が知らない僕の理想の問題なのかも知れない。』


「そう」だと言っています。


『僕にとっての問題、
すなわち現実と理想とが乖離していて
指針や態度の吟味が必要とされる問題は、
「こっちが組み込んでもらいたい文脈に
組み入れてもらえない状態」を前にどうしたらいいか、
ということです。』


うん。


『これについては君は端的に「それでいい」と答えるでしょう。
僕は相手の文脈を毀損してでも「愛し合いたい!」ということになる。
まあ、だいぶ単純化していますが。』


やー、あなたが言っているのは、相手から手を差し伸べて貰いたいということなんじゃ? 「相手の文脈を毀損してでも」ってのは、“相手にあなたの立場を理解させてでも”って言葉に変換できるよね? なんというかちょっと乱暴な言い方をすると(怒らないでね。分かりやすいたとえと思ったから)、マグロですよね。マグロ。俺はマグロでいるから、お前が動け! みたいな。まあ、男らしいと言うか、女らしいと言うか。


『というのは、君は「自分が組み込んでもらいたい文脈に自分が排除されるとき、それはそれでいい」と言うが、僕にとっては「果たして本当に自分は排除されているのか」とか「本当に自分は相手の文脈に組み込まれたいのか?」とかいう問題がなお残っているわけです。』


うん。たぶん、だれもあなたを排除していないと思う。たんに、あなたの立場を思いやれないだけでして。これは、「文脈から排除されている」とは違うでしょ。


『自問に対する批判として、
いままでの君の批判は性急に過ぎたのではないだろうか?』


あ、それは認めます。


『君は単に一般論として
「無視されたっていいじゃないか」と言い、
僕は一般論として「無視」を語るのではなく、
今回はnosさんに自分が無視されていることを問題にしていて、
続いて君が僕を無視していることを問題にしている。

「無視」という問題についての「暴力」こそが
議論されるべきだと思うね。
愛の対義語は暴力ではなく、
無視なんじゃないかと思うんだけどね。
無視を伴う暴力が問題なんじゃないかと思うんだが。

ただ理想を提示するだけで指針や態度を論じないのは、
問題にするべき暴力だと考えます。
現実に即さない指針を盲目的に提示するだけもまた然り。』


そかー。無視の暴力ねえ。まあ、ナイーブな問題だね。ここを重点的に語りますか? しかし、今回確認したいのは、あなたは無視なんかされていないということ。無視されていると考えるのは、あなたが「サービス」に慣れすぎているからじゃないか。


『(略しますが)「パフォ/コンスタ」というのは、
ある表現行為を分析する際に相対的に指摘しうる概念であって、
コンスタティブな相のない態度も、
パフォーマティブな相のない態度もありえないんじゃないかと。』


いや、そりゃそうだ。


『さて、
説明を求められたので答えるけれども、
たとえば「りんご」について説明する場合、
「丸くて、赤くて、果物で、青森の特産品で」
と説明を続けて、りんごを知らない人に
りんごについて説明することが出来るか、という問題。

これは僕はたとえば
上記の説明で十分な場合もありえると思います。
「なるほど、りんごってそういうものなのね」と了解すればそれでいい。
それをもって「りんごについて知った」と言えるでしょう。』


まあ、立場の違いですが。しかし、先述のCの4をAが受けいれるときも、リンゴはリンゴ式の理解における直感性が問題になっていたのでした。


『逆に当のりんごを手にしたところで、
それに触れたところで、
あるいはそれを眼にしたり匂いを嗅いだところで、
色や形や植物学的あるいは社会的な背景を知る以上の特権的な経験をした、
と考えるのはおかしいと思う。

「直感」と君は言うけれども、
それをなにか特権的なものだと考えることが
おかしいのではないだろうか。』


おかしくないでしょ。というか、りんごという概念を理解する仕方を「りんごはりんご」と言ったんであって、当のりんごの匂いうんぬんは関係ない。

『「関数」を語るときに、
その「来歴」を捨象するのは、片手落ちなのではないか、
と言いたいのです』


問題にならないと前に書きました。


キャシャーンについては、
キャシャーンの魅力について語るときに
「映画」というジャンルの意義を持ち出す必要はないと思います僕も。

ただし、キャシャーンの至らなさを語るときに
映画というジャンルに鑑みて貶めるのが不当であると言いたいのね。

わかるかな』


あ、これはわかります。同意。