返事

  • 「価値」について


権威主義と言われると悲しいね。しかし、その批判もまた正当だろう。権威主義という言葉を啓蒙主義という言葉に読み替えれば。実際、『貨幣論』(岩井克人 筑摩書房)を図書館から借りてきて読み返してみたところ、わたしの「価値」に関する理解は文中時にマルクスの言葉を借りて随所で批判されているように思えた。


わたしに誤りがあるとすれば、端的に言って、「価値は想像上のものである」と言い切ってしまうところに他ならないだろう。確かに、価値は現実に存在しえない以上、想像上のものと思える。しかし、価値を想像上のものとしてしまうことで、貨幣の価値は単なる妄想に過ぎないと言ってしまうことになるなら、それでは現実に流通している貨幣の存在をいかに説明するのか?*1 これが、あなたの繰り返し指摘してきた批判の要約になるだろう。もちろん、わたしはかかる批判に対しては「貨幣は、ただ流通することによってのみ貨幣たりえる」のだと説明してきた。あなたが、貨幣を政府などの外的な要因により貨幣の価値を根拠付けようとしたとき、それは違うと指摘した。これらの主張、指摘は、岩井の論旨に沿うものである。しかし、マルクスは次のように言うようである。『貨幣論』(p.106)から孫引きさせてもらおう。

貨幣形態は、他のすべての商品の関係の反射が一つの商品に固着したものでしかない。だから、貨幣が商品であるということは、ただ、貨幣の完成姿態から出発してあとからこれを分析しようとするものにとって一つの発見であるだけである。交換過程は、自分が貨幣に転化させる商品に、その価値を与えるのではなく、その独自な価値形態を与えるのである。この二つの規定の混同は、金銀の価値を想像的なものと考える誤りに導いた。また、貨幣は、一定の諸機能においてはそれ自身の単なる記号によって置き換えることができるので、もう一つの誤り、貨幣は単なる記号であるという誤りが生じた。…(中略)…しかし、一定の生産の様式の基礎を受け取る社会的性格、または労働の社会的規定が受け取る物的な性格を、単なる記号だとするならば、それは同時にこのような性格を人間の得手勝手な反省の産物だとすることである。これこそは、十八世紀に愛好された啓蒙主義の手法だったのである…


わたしがまさしく価値を「人間の得手勝手な反省の産物」としたことに対して、あなたは批判をするのではないか? この点、マルクスにとって価値とは労働価値であり、この労働価値を信じきっていた、労働価値の実体性につき疑い得なかったからこそ、上記の如き批判が可能になった。このことを、岩井は文中繰り返し指摘している。では、あなたは何によって価値を根拠づけているのか? 岩井は、貨幣が流通しているそのこと自体が貨幣の価値を決定するという循環論法で貨幣の価値を根拠づけるのである。岩井は次のように言う。

一度無限の「循環論法」としての貨幣形態Zが成立してしまうと、貨幣という存在はまさにその「循環論法」を現実として「生き抜く」存在となる。それは、ほかのすべての商品に直接的な交換可能性を与えることによって、他のすべての商品から直接的な交換可能性を与えられ、他のすべての商品から直接的な交換可能性を与えられることによって、他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えている…(中略)…全体的な相対的価値形態(社会化する主体)と一般的な等価形態(社会化される客体)というお互いがお互いを成立させている二つの形態を同時に演じている貨幣という存在は、まさに自らの存在の根拠を自らで宙吊り的に作り出している存在なのである

(『貨幣論』p.55〜)

他のすべての商品が貨幣に直接的な交換可能性を与えているから、貨幣は他のすべての商品に直接的な交換可能性を与え、貨幣が他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えているから、他のすべての商品は貨幣に直接的な交換可能性を与え…ているのである。すなわち、他のすべての商品が貨幣に直接的な交換可能性を与えていることと、貨幣が他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えていることとは、お互いがお互いの根拠となっているまさに宙吊り的な関係になっている。真理と誤謬、本質と外観、実体と幻想といった二項対立が永遠に反転し続けてしまうのである

(『貨幣論』p.57)

それ自体は何の商品的な価値を持っていないこれらのモノ(紙幣等貨幣)が、世にあるすべての商品と直接に交換可能であることによって価値を持つことになる。ものの数にも入らないモノが、貨幣として流通することによって、モノを越える価値を持ってしまうのである。無から有が生まれているのである。ここに神秘がある

(『貨幣論』p.67)


以上の引用部分には、あなたがこれまでみせた思考に近しいものを感じるがどうだろうか?
それにしても、なぜ岩井はことさら「貨幣として流通することによって、モノを越える価値を持ってしまう」と言うのだろうか。なぜ、マルクスのように「価値」を護持し続けるのか。端的に、わたしが言ったように「価値はない」と言うことはできなかったのだろうか?わたしが価値は自明に存在しないと言っているわけで、空間を“批判”によって見出すことができるように、価値をある種の手続きを辿って言い当てることはできると言ったとき、わたしは岩井と同じ認識を共有しているとは言えないだろうか? しかし、マルクスが労働価値を信じたように、岩井は価値を信じているのである。少なくとも、価値形態論においては。一連の、岩井の引用は、マルクスの価値形態論を岩井流に敷衍した理論である。


岩井は、価値形態論と価値交換論を混同してはならないと言う。

価値形態論で論じられるのは、与えられた商品世界の中で、価値の担い手としての商品がお互いにどのような関係を持たなければならないかという問題である。そこでは、言わば主体も客体も共に商品であり、話される言葉は「商品語」である。これに対して、交換過程論において論じられるのは、モノの所有者同士の現実的な交換を通して、単なるモノがどのようにして価値の担い手としての商品へと転化していくのかという問題なのである。そこでは、主体は人間であり客体はモノである。モノの所有者としての人間同士が交換のために話し合う言葉はもちろん「人間語」である。実際、後に我々自身が交換過程論を取り扱う時明らかにしてみるように、いくらモノの寄せ集めの中に所有者の主観的な欲望を仕込んでみても、それが商品の世界へと転化していくためには「歴史の偶然」とでも言うべき無根拠な出来事の介入が必要となる。形態の論理と過程の論理、いや関係の論理と生成の論理との間には越え難い断然がある。そして、従来この断絶をまったく無視してきたことが、価値形態(そして交換過程論)の解釈をめぐる多くの混乱した議論を生み出してきてしまったのである


価値とその表現形態としての価値形態の区別の必要性すらさほど認めていない(価値は理念であり、価値はないものであると考えているから。価値に実体性を認めて初めて、価値の表現形態を考える素地が生まれるのである。例えば『貨幣論』p.17参照)わたしは、当然、価値形態論と交換過程論の区別をしていない。わたしに誤りがあるとすれば、またこの部分にもある。岩井は価値形態論においては、貨幣の価値を信じている。だがそれは、もはや言うまでもないことだろうが、貨幣の価値を信じない限りは現実に流通している貨幣の存在をいかに説明するのか?という問いに価値形態論において答えを与えることができないからに他ならない。かかる「価値」こそ、わたしは理念だと言っているのである。*2貨幣のかかる理念としての「価値」は自明には存在しないものなのである。わたしが「価値」において言いたいことは、以上のようなことである。


というわけで、参考文献を『貨幣論』(岩井克人 筑摩書房)に指定します。明晰な文章に痺れます。

  • 「直感」について

直感」について。君は「りんご」について「匂いとかは関係ない」と書いてた。じゃあ、直感てなんですか。「勝手な理解」ということなのかな。だとすれば、なおさら、りんご「そのもの」に触れる必要はないでしょう。りんご「そのもの」に直感で触れるにはどうしたらいいんですか。「りんごはりんご」ということについては僕は異論はないよ。

だけど、「りんご」をりんごではない概念で理解するひとは居るだろうし、「りんご」として認識されている概念だって多種多様だろう。つまりは、なんらかの概念に触れるのに、方法はひとつではない、ということを言いたいわけだ僕は。よって、ある概念を説明するに当たって、説明の方法に限界はないし、伝えたい内容があるならば、絶望せずに頑張る意義も十分あると思う。相手に「勉強しろ」というのは手段として汚い。時間がないなら仕方ないけど。というか、権威主義的だと言いたいわけですよ。君自身が掲げている「相手の文脈を愛せ」に著しく矛盾していると思うよ。権威というのは、一定の「市場」にしかありえないものだからね、わかってるだろうけど。


以上のように、あなたは言うわけです。

逆に当のりんごを手にしたところで、それに触れたところで、あるいはそれを眼にしたり匂いを嗅いだところで、色や形や植物学的あるいは社会的な背景を知る以上の特権的な経験をした、と考えるのはおかしいと思う。


「直感」と君は言うけれども、それをなにか特権的なものだと考えることがおかしいのではないだろうか。


そして、そもそもあなたはこのように言っていた。これに対してわたしは「りんごという概念を理解する仕方を“りんごはりんご”と言ったのであって、当のりんごの匂いうんぬんは関係ない」と言いました。しかし、かかる概念の理解の仕方というのは、何よりも幾何学的命題のような理論的概念につき妥当するものです。三角形の概念を「三本の直線を用いて一個の図形を作ることは可能である」という命題で説明し得ても、この文言からだけでは三角形を作図できない。そこには、やはり直感の働きが必要であるということです。同様に、重力についても、りんごが木から落ちることを示して、そこに物理法則が働いていることを理解させることはできても、重力が何であるか言い当てることはできない。しかし、逆に言うと三角形の概念についてすら、「三本の直線を用いて一個の図形を作ることは可能である」と言えるし、重力においてすら、「りんごが木から落ちることを示す」ことができる。いわんや、りんごのような理論的概念ではなく自然物においては、むしろ匂いや形で理解するべきものとさえ言える。少なくともそう説明はできる。わたしはりんごを、あたかも論理記号のように扱っていたが、これは硬直的過ぎる考えだったかもしれない。少なくとも、わたしが直感の概念において依拠しているカントならこんな考えはとらないものね。ただ、「りんごはりんご」という理解にも誤りはないと思う。これ以外の理解、いや説明は可能なはずであるというあなたの主張には完全に同意します。


しかしですね、あなたが依拠していると思われる構造主義的言語観は(いや、あなたは違うようだ)、言葉を一般的なものとして捉えすぎているのではないでしょうか? 詳しくはまったく分かりませんが、構造主義が批判したと思われる、りんごに内在する性質として「りんご」という概念が先見的に存在するのだという通俗的言語観については、わたしも否定します。あなたは、以下につき同意してくれました。

  • 文脈について

Aにとっての「1」と、Cにとっての「1」は厳密には違うと考えています。加えて言えば、Bの文脈としての「4」とCの文脈としての「4」とは違う。


だから、Aが「4」を文脈として組み入れることができるかどうかは、おっしゃるとおりアクシデントを期待するしかないだろうね。これは了解できてると思う。


わたしが直感という言葉で言いたかったのは、まさしくかかる言葉の個人性でした。


あなたは上記引用の後、分有的な言葉という概念を提出します。それは、「動的なイメージ」である。

誰かが持っている文脈が、他の誰かにとっては別の現れ方をして、別の文脈としてその人固有の文脈として組み込まれていく


以上のようにあなたは言うわけです。かかる言語観自体は否定する理由はありません。ただ、それが「甘え」につながるならわたしは否定したいと思っています。もちろんこのわたしの考えを強制する理由もない。しかし、言葉の分有という言語観には、どことなく言葉の一般性を想起するものがある。当事者間における、個人的な言葉を分有するべきである。このような言い方を承認してもらえるなら、わたしは言葉の分有という概念を受け入れましょう。だが、こうした言い方すらどうも言葉の一般性を導く詐術に思えてならないのですが。

共通点があるから、対話は続いていくわけですよ


あなたはここで「共通点」が存在しなければ、対話が不可能だと言っているのでしょうか?
いや、あなたは違うのだと言うのでしょう。あなたは常に穏当な言いまわしを心がけているようですから、あくまで「“共通点”が存在しなければ、対話は続かない。続かないことがある」と言うのでしょう。しかしこの結果、相手に共通点を持てと強制することを肯定するならば(あなたは、相手の文脈を毀損してでも愛し合いたいと言う)、これは物凄く不遜な言い方だというのに気づかないのでしょうか。しかし、あなたは言葉の分有と言うのだから、共通点を持てと「強制」したいわけではない。強制せずに、個人的な言葉を分有する方法。やはりわたしは、相手の個人的な言葉をあなたのものにしろ(相手の文脈を愛せ)としか言うことはできません(もちろん、この際に暴力が介在せざるをえない)。言い添えておくとこれは決してあなたが一方的に割を食う話ではない。あなたは分かっている、詰まらないと言うでしょうが。

やはり「ここ」で止められないから、戦場で銃が火を噴くのだと考えていますよ。やっぱり、シリアスに考えるなら、「それでいいでしょう」とは思えないです。自分の利己的でその場限りの立場としては「それでいい」と思わなければやっていけないけれども、だからといって、それを理想とすることはできない。指針としても、「それでいい」と思えない場面を考えるべきだと思うよ。


「古き良き」知識人発見という感じで。しかし、戦争の抑止及び廃絶を考えるときに、重要なのはあなたが戦争に参加しないことでしょう。これもまた「古き良き」という感じで。しかし実際、あなたが相手に共通点を持てと強制するなら、これは戦争に参加するメンタリティーをあなたが培っていることになると思う。そういうことに気づいていくことが大事で、戦争を抑止するために国際治安維持軍を創設しましょうなどと言うのは違うとわたしは思う。まあ、あなたは分かっている、詰まらないと言うでしょうが。

存在しない、というだけでなくて、僕が上記のように「コミュニケーション」を理解しているから君が想像している理念的な「閉じたコミュニケーション」というのも理解できないんだよ。君はどこからその突拍子もない「閉じたコミュニケーション」というモデルを引き出してるわけ? コミュニケーションのことをよくわかってないから、勝手にでっちあげているだけとしか思えないよ。


あなたが、相手に共通点を持てと強制するならば(相手の文脈を毀損しても構わないと言うならば)、ということです。共通点がなければ成立しないコミュニケーション空間は、「閉じたコミュニケーション」だと言って差し支えないのでは? 相手の個人の自由、個人の言葉を侵害しない言葉の分有を目指してください。言葉は常に他者の言葉です。このことは、わたしも認識しています。だから、個人の言葉はこの他者性ゆえに自由になれる(すごく詩的な言い方しかできませんが、もし言葉が完全に個人に由来する個人的なもの、個人の元を離れないものだとすれば、相手の言葉を直感によっても理解することもできないし、自分の言葉を直感によって相手に伝えることもできない。言葉は他者の言葉だからこそ、言葉は個人の元から離れることができる、個人は個人の言葉から解放される)。このことを考えれば分有も不可能ではない気がします。共通点を持てと強制することは、逆に言葉の他者性を否定したものであると考えます。

  • サービスについて

「相手が価値観なり文脈なりを押し付けてきた際に、そのことを相手があなたの文脈を理解をしてくれないのだという問題へ変換するあなたの理解の仕方、態度」を君が問題にしているというのはわかった。


それがわたしの主張でした。

でもこれは本当に「変換」なんだろうか? こっちの文脈についての理解が問題にならないような「価値観の押し付け」なら僕は問題にしない(ということにしておく)。


君はそういうような問題にならない「価値観の押し付け」だけを話題にしているように思えるよ。


そうでしょうか?

僕はこっちの文脈が理解されないことを問題にしている。その通りだね。サービスでもいい、相手に自分の文脈を理解してもらうにはどうしたらいいんだろか、と。もちろんこれは抽象的に議論できるものではない。別に「相手の文脈を愛せ」でも構わないけれども、こんな安っぽいお題目は重々承知しているわけだよお互い。それをリアルに機能させるにはどうしたらいいか、と、それを僕は議論したいんだけどね。


戦争に行ってきたひとの話を聞くのは悪いことじゃないよ。だけど、「だからお前も戦場に行け」と言われたら、首をたれて話を聞くだけでは不誠実だろう。


? こうべをたれて話を聞くだけじゃ不誠実だと一方で言いながら、相手にあなたの文脈についての理解を求めるのですか? 不遜なだけなのでは? なぜ、不誠実なのかわからない。例えば戦争反対運動の署名にサインしない文学者がいたとして、それでこの文学者が非難されるなら、その非難自体がファシズム的、つまり戦争を肯定する態度でしょう。サインしない自由が文学者には認められる。話を聞くのも同じだよ。基本的にあなたには当てはまらない言葉だとは思うが、しかし教条的過ぎるのでは? 

で、サービスの話なんだけど、サービスは必要だと思う。商業的に提供されているサービスだけがサービスではないし、むしろ「サービス」は、商業によって代替されたことによって「サービスというのは商業的なものだ」と認識されることが多くなってしまい、非営利なサービスがよりいっそう手の届かないものになってると思う。


そうなの? うーん、まあ分からないでもないような…

でもそんなマスコミ的な「欲望>充足」という構図の中での、これみよがしな「サービス」ではなくて、個々人間で期待できるサービス、あるいは、サービスが期待できる人間関係というのはありえるんじゃないすか。

あるいは、そういう「サービス」を引き出せる態度というかね。もしくは、そういうサービスが期待できないんならね、その事実をどうやって受け入れられるかっていうところでしょう。僕はそういう議論をしていたつもりです。


うーむ。真面目に思うんだけど、やはり日本から、あるいは世界からなんというか宗教性が失われつつあるからなんだろうね。いや、逆なのかなあ。まあ、少なくとも我々が生きている現実には、宗教なんかないと思うからね。非営利的なサービスを期待するなら宗教に代わる何かを発見しなくてはならないだろうね。

まあ「ここんとこ気付いてください」くらいは言えるでしょう。君が批判してくる前に僕がひとりで自問していたのは、気付いてもらいたいのは自分のなんていうところなのか、ということを考えていたんだけれども。


さあ。わたしには、「甘え」にしか見えないのだが。あなたの少し複雑な成長過程を確認しても、それは、ねえ… 共感はしますよ?

でもではね、受け入れるとは何なのか?受け入れられないときはそれでいい、というならどういうときに受け入れられないのだろうか?どのようにして受け入れられないと判断した自分を信じるのか?


それが僕の問題なのよ。君は僕の問題をまったく考慮できないような「理想」をいきなり振りかざしているわけですよ。


うん。だいたい、わたしも言うことはないですよ。

「話を聞く態度」だけを問題にするのはおかしいだろう。それは対話に向ける態度ではない。君のように活発に多くの人と話しをする人間が、「話をする態度」について議論ができないなんて驚きだよ。もしかして、あんまりに考えていないからこそ、無神経に議論ができるということなのかも知れないね。


相手のサービスを求める態度は、わたしからすれば話を聞く態度なのです。話をする態度をあなたが問題にしているとは思えなかった。今は、あなたの言わんとしていることが分かる気がします。もう、これ以上言うこともないです。

で、理想と批判の問題。

どうして君は「現実を批判するために理想を示そうとして、逆に現実と同じになってしまう」という場合だけ問題にするんだろうか。


いや、「場合だけを問題」にはしていません。ただ、「個人の自由の価値」に重きを置いているのです。

現実を踏まえた上で理想を練り直すことはできるし、現実を踏まえた上でなお現実を改革できる理想はありえる。というか、現実を考慮しただけでダメになる理想なんて、それはたんに耐久年数が過ぎてるって事だよ。

君は理想を固持するに足る根拠を持っていないからなんじゃないだろうか。その程度の理想なんだとすれば、そんな理想はどうでもいいと思うよ。

現実を認識して、それでもなお、現実を変革しうるような理想があれば、そういう理想だけに意味があると僕は思うよ。理解できないかな。

つまり、理想には、現実を認識してもなお残るものと、現実に押しつぶされて消えてしまう理想がある。


前回にも書いたことです。あなたの言っている意味は理解していますよ。まったくその通りだと同意します。詳しくは、前回の記述を参照してください。


君はここの吟味をちゃんとしていないから、そんな中途半端な理想論しか提示できないのではないか。


そうですか。

でもね、「思いやってもらえない!」とただごねたいのではなくて、なんかわかってもらいたいんだけど、なにをどうわかってもらいたいのかわからない、と言ってるのよ、僕は。
そこを考えたいわけです。


わからないよ。いや、言葉にできない。

しかし、君は僕の「文脈」を暴力的に「理解」しているし、それについて改めようとしない。僕は君にそれを改めさせることに失敗し続けている。


たしかに、どこまで君が好意的に僕の文脈を理解しようとしても、そこに暴力性は介在し続けるだろう。それは仕方ないよ。


でも、その暴力性に開き直り、「より暴力的でない」理解を目指さないとしたら、逆に、僕がその「より暴力的でない」理解を期待しなかったとしたら、僕の文脈はやはり打ち棄てられたまま、つまり無視されることにならないだろうか。


僕が問題にしているのはそういう「無視」ね。


うーん。あなたと話しているとね、何というかあなたしか救えない話しかでてこないんだよ。あなたの言葉をもっと受け入れることはできるよ。おそらく同調のレベルまで。というか、今までの付き合いを考えるとわりとわたしはあなたに同調してきたような気もする。こと、個人的な言葉をやりとする個人的な話だからあなたの言葉を使って議論するのが良いのだろうけど… 

ちなみに「パフォ・コンスタ」の話だけど、君が「コンスタティブな発言だけを問題にして欲しい」なんて言うから、「コンスタティブな側面」だけを問題にする、だなんてそんなのは甘いよと。そんなのは「甘いよ」というところを強調したいわけですよ。


「コンスタティブな側面」だけが問題になるのは、それはエスタブリッシュな場面、パフォーマティブな側面の問題を、別の形式で先送りにしたり黙殺できる場だけだよ。まさに権威が必要になる。が、君に権威はない。皆無だよ。


君が「来歴」を捨象して「関数」的な考え方しかしない、いわば「構造主義的」なスタンスをとるのに対して抱く僕の違和感はこの権威主義的な問題に絡むよ。


恐ろしいことを言うねえ。しかしあなたが、話者の態度まで問題にしようとするなら、ちょっとこれ以上話を続けるのは難しいな。そもそも当初に伝えたい話の内容は伝わっているとわたしは思っているしね。

構造主義ってのは結局は(もともとがどうであるかは別にしてね)対象を静的にしか把握できない。わかってる?


現実を「エクリチュールの森」として認識するのに対して、「そんなこと言ったって、ぜんぶエクリチュールなのはわかってる」とか言ってもしょうがない。ぜんぶを「エクリチュール」という動的なものとして捉えなおせ、というのが構造主義を批判する立場なのよ。構造は指摘できる、でも指摘してもなお、指摘しきれないものが残る。この指摘しきれないものと構造との関係が、エクリチュールとフランス語で言われるものなわけじゃん、たぶん。


君が構造しか指摘できないとしたら、それはエクリチュールを構造としてしか捉えていないのではないか?聞き方の態度だけを問題にするのは、だから、発話の態度、それこそ、エクリチュールの問題を扱えていないと思う。


うん、その通りだね(笑) しかし、わたしには難しすぎるな。ちょっと勉強してみますよ。

ちなみに、ゴダールの話はいつ続くの?


や、特に言うこともないのかな? まだ待って欲しい。

*1:新古典派経済学では以下のように説明されるようである。方法論的個人主義に基づくこれらの新古典派経済学者は、消費者の主観的な選択と生産者の技術的な選択とを分析する手法としての限界原理(微分法)を駆使して、古典派やマルクスの労働価値を(生産技術の線形性の仮定と労働を唯一の希少な資源とする仮定に全面的に依存している)特殊モデルとして葬り去ることになる。…スイスのローザンヌ大学に籍をおく…ワルラス一般均衡理論は…、資本主義社会をお互いに依存関係にある数多くの市場のネットワークとして捉え、すべての市場の需要と供給を同時に均衡させる価値体系(一般均衡価格体系)の存在を数学的に証明したのである。商品社会の中のすべての商品の価値(均衡価格)は、当然すべての市場の需給関係に依存する。商品の価値とは必然的に価値体系の中の一つの価値に過ぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時にすべての商品の価値を変化させてしまうことになる。ここに価値体系の科学としての経済学が形式的な完成をみたのである。あなたが以前、「価値は相対的である」と言ったとき、念頭にあったのは以上のような考えだと思う。しかしわたしはこれに対して、価値ではなく価格と言うべきだと批判したのである。ところで、このワルラスの後継者であるパレートを通じてかかる一般均衡理論は、近隣のジュネーブ大学で一般言語学を講義していたソシュールに影響を与えたのである。こうして、一般言語学講義において言われるように言語(langue)は「純粋な価値の体系」として規定されるようになる。言葉とは関係の中においてのみ現れてくる。これによって、ソシュールは、一つの言葉は先見的に与えられた一つの概念を意味しているという、通俗的な言語観を否定しようとした(以上、『貨幣論』p.28参照)。あなたが、言語観において構造主義的−ポスト構造主義的な立場をとり、価値観において新古典派経済学的立場をとるのは真に理に適っている。わたしは、「言葉は先見的に与えられた一つの概念を意味しているという通俗的な言語観」に立つわけだ。しかし、「存在」や「欲望」のように先験的に与えられるほかない言葉というのは存在するのではないか? もちろん、りんごの内在的性質として「りんご」という言葉が与えられるのであるとは言っていない。批判されるべき「先験的」通俗的言語観とは以上のような理解を指すのである。

*2:この点、岩井は『貨幣論』第二章の『交換過程論』において、貨幣の「生成」の論理的根拠につき二つの有力な学説、すなわち貨幣商品説及び貨幣法制説が「先験的にはなんら必然を有していない(p.99)」ことを示し、ただ貨幣の存立は価値形態論で論じられた貨幣の循環論法によって根拠付けられるとする。そして続く第三章『貨幣の系譜論』においては、「貨幣が貨幣であるのは…貨幣形態Zの無限の"循環論法"の中で貨幣の位置を占めているからであるという事実を歴史的に実証(p.131)」するのである。もはや岩井が、貨幣の価値を語ることはないのである。