長い長い返事

Q.1 わたしの批判の仕方が誤っているとあなたは批判したい。それ(わたしの批判の仕方が誤っていること、わたしの批判が誤っていることをあなたが批判したいということ)をわたしは理解しているか?

Ans. 理解しているつもりです。あなたは、おそらく二つの意味で、わたしの批判を的外れだと言っている。①わたしはあなたの現実から乖離した理念で、あなたの現実を批判をしている。かかる理念による批判は実践的ではない。あなたは、だからより実践的な理念で批判を行うべきだと考えている。たとえば、平和を語るならば同時に国連のような平和を達成する手段を考えるべきだということですね。このような意味であなたはわたしを批判していると思う。あなたの批判は一般論としては完全に正当です、受け入れましょう。前回から認めていたことです。ただし、『閉じたコミュニケーション』という言葉に集約される、わたしが提出したあなたの現実、それが局面であれ批判を行いたい現実を抽出したモデルは正しかったという考えをわたしはいまだに捨て切れません。現実を局面だけ捉えても、意味がない、意味がないとは言わないまでも弊害があると、あなたは批判するでしょう。特に、批判を行う目的が、現実の変革にあるとき、現実を局面だけ批判しても変革を成し遂げることができないならば、現実を局面だけ捉えて批判するのは目的に外れるので意味がないとあなたは言うのでしょう。そして、現にわたしがあなたの現実を局面だけ捉えて批判しても、そのことによってあなたの現実は変らなかったのだから、わたしの批判は的外れだったのだということになるのでしょう。いや、あなたの「現実」という言い方より、「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない、これは、あなたの現実ですか? それとも理念ですか? 」というわたしの質問に、あなたは「現実」でも「理念」(ここで言われている「理念」という言葉と「理想」という言葉は同じと考えて差し支えないように思う)でもなくて、「態度」「指針」だと言っているので、「態度」「指針」と言い換えた方が良いのかもしれません。ところで、わたしが「指針」と言ったとき、「指針」とは強制を伴わない行動規範というほどに使っています。暴力を伴わない法規範。しかし、法規範をたとえば行政指導という穏便な言い方に変えても、結局は権力の暴力を前提にしたものなのだから、暴力を伴わない法規範を考えることは不可能だし、要するに「指針」と言ったところで、強制力、暴力を伴った規範、理想だと言うべきだったのだろう。理想に不可欠に伴う暴力の問題に関しては、批判②で言うことになるので、今は置こう。むしろ、ここで言うべきはあなたが「指針」「態度」と言ったのは、あなたの理想だったのではないかということだ。どうだろうか? Q.1 わたしは、「あなたの現実」という言葉でそのことを言っていたように思う。確かに、あなたは一方で、わたしの理想でもある「相手の文脈を愛せ」という言葉には同意をしてくれた。だが、わたしはかかる理想につき、『自分が相手の文脈から排除されても、なお「相手の文脈を愛せ」』と言い、あなたは「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」と言う。あなたはこう言うだろう。「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」というのは、わたしの言っているような現実から乖離した理想ではなく、なるべく現実に即した理想なのだと。いや、現実的な「態度」であって、そもそも「理想」ではないと言うだろう。どうだろうか? Q.1-2 しかし「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」につき、「やむを得ない」という表現で、あたかも現実的な「態度」を語っているように思えても、それは結局、あなたが将来に採り得る態度の予測のようなものであって、やはり、せいぜい現実に即した理想と表現されるべきものなのだとわたしは思う。繰り返すが、「指針」という穏当な表現も、結局は暴力を伴わざるをえない理想なのだと思う。わたしの言う理想に対して、あなたが現実的な態度を問題にするとき、あなたはわたしと同様に理想を語っているのだということに同意するだろうか? Q.1-3(Q1~Q.1-3まで、すべて同じことを質問しています。まとめて答えてくれてかまいません) もし同意するなら、次のことが言える。あなたも前回までに同意してくれたように、批判にはある視座が必要になる。わたしは、その視座を理想と名付けた。あなたは、批判にある視座が必要となることまでは同意するが、その視座が現実から乖離した理想のようなものであれば、否定したいと思うだろう。どうだろうか? Q.2 しかし、わたしが繰り返し述べてきたのは、あなたの求める現実に即した批判の視座、現実に即した理想というのは、現実の追認に過ぎなくなるのではないかという懸念だった。これに対して、あなたはわたしに現実の追認になり得なくて、かつ現実に即した批判の視座、現実に即した理想を提出することを要求している。その理由は、そもそも批判が現実の変革を目的としたものならば、現実から乖離した視座、理想で現実を批判しても、現実の変革が成功するわけではないからだ。ここまでの確認に問題はないだろうか? Q.2-2 わたしが、「相手の文脈を愛せ」と言い、「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せと言った理想は、ある批判の視座だ。その批判の目的は、「あなたの現実」の変革にある。わたしは、先に次のように書いた。『わたしは、「あなたの現実」という言葉でそのこと(「指針」「態度」とは、あなたの理想なのではないかということ)を言っていたように思う』だからわたしは、あなたにこう言いたい。わたしは、かかる理想によって、あなたの理想を批判していたのだ。あなたの理想が「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」というものに帰結するなら、わたしはその理想に対して、「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せ」と批判すると言っている。だが、帰結という言葉は強すぎるかもしれない。少なくとも、あなたは「相手の現実を愛せ」を現実に実行したときに、相手の文脈を毀損することがあるのだという事実を述べているのだと言っているのだろう。それは理解できるが、しかしそれは、事実を述べているに過ぎないのであって、そのこと自体、保持すべき「態度」「指針」、すなわち「理想」ではないと考えている。「かかる“態度”“指針”を保持せざるをえない」と言うなら、それもわからない。なぜなら、“態度”“指針”は保持せざるをえないようなものではないからだ。態度は、指針は、理想は変革し得るのである。ただし、「態度」「指針」を仕方なくとってしまうということはある。しかしそのことを、その事実を、「態度」「指針」として掲げよう、「理念」として保持しようというのならば、わたしはその「理念」を批判する。あなたが、「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」というとき、あなたは事実を正当化しているように思える。わたしは、このことを「現実の追認」と言っていたのです。しかし、まだあなたはわからないかもしれない。そこで、次のような例で考えてみてほしい。アメリカは銃社会だと聞く。一方には、銃規制・銃廃止の立場があると思うが、一方で銃を所持する権利を失いたくないと考えるひとびとの立場がある。銃を所持する権利を失いたくないと主張する立場のひとたちは、開拓時代からの自主防衛の精神から、かかる立場を主張していると思う。銃を規制、廃止するのはかまわない、だが誰が俺たちを守ってくれるのか? と彼らは主張するのではないか。銃が蔓延しているこの社会の現実は変らない。だったら、銃で護身するよりほかないではないかと言うのではないか。もっともな言い分である。では、アメリカ社会から銃を撤廃させるためには、どうすれば良いか。方策はただ一つだと思う。すなわち、政府の権力による暴力を後ろ盾にした、銃の規制および撤廃である。実際、日本は銃をそのようにして「法」規制している。銃撤廃という理念は、銃保持という“理念”に対して、強制力によってのみ実現されるのである。銃の保持は現実である以上に、理念なのである。つまり、「誰が俺たちを守ってくれるのか?」という現実的な問いかけの背後には自主防衛の精神があるということである。自主防衛の精神、この理念自体に善も悪もない。善、悪は最終的に現実に照らし合わせて判断するしかない。すなわち、自主防衛の精神を尊重して銃の所持を認めた結果、銃による犯罪が後を絶たない現実をどうするかという問いである(銃の保持を認める立場は、銃と犯罪は関係ないと主張するだろう。しかし、銃という手段によって多くの犯罪が達成されるのは事実である)。かかる判断、問いに対しては結局、恣意的な判断しかなしえない。もちろん、銃による犯罪のケースの統計等細かくデータを出すことは可能だろう。それでも、「銃と犯罪は関係ない」とは言い得るのである(おそらく、あなたはわたしがここで言っている細かくデータを出す作業を導くような態度をわたしに求めるだろう)。そのデータを基に相手の立場へ説得を試みるわけだ。しかし、かかる民主的プロセスでは、銃の規制は容易に達成し得ないのではないか。繰り返すが、銃の所持を主張する立場の背後には、自主防衛の精神、理念が存在するのである。理念には、理念で対峙するほかないと私は思う(たとえば、銃の規制につき、治安維持という実践的手段と伴にパケージで説得を試みても、当の権力の暴力からの自己防衛が問題にされてしまう)。そこで、銃の規制を求める立場に立ってわたしはこう言おう。なぜ、自主防衛の精神が必要とされるのか。それは自己の生命財産を守る際の心構えとして必要とされるのである。しかし、あなたの生命を何らかの攻撃手段によって守るならば、その当の守る手段によって相手の生命が危険にさらされるということを考えるべきである。あなたの生命と相手の生命のどちらが尊いと誰に判断ができるだろうか。あなたは、あなたの生命を守るために相手の生命を危険にさらすべきではないのだ。このように言うことで、初めて自主防衛の精神、理念を語る相手に対して説得ができるのである。しかし、“実際の現実では”、つまり近代法の常識では、正当防衛は認められる。なぜか。それは、相手の生命よりも自分の生命が尊いからではなくて、自分の生命が危険にさらされたときに相手の生命を危険にさらすことも「やむをえない」と考えられているからである。この限りで、違法性が阻却されるのである(簡単な話だよね。たぶん、教科書レベルでは通説のはず)。つまり、自分の生命が危険にさらされているときに、相手の生命を守ることまでは「期待できない」。この「期待できない」ということを、正当防衛という例外として特別に規定し、相手の法益を侵害する殺人も傷害も認めましょうというわけです。これが、あなたの考える現実に即した理想に近いのではないか? Q.3 しかし、わたしとしては、違法性が阻却されるというよりも責任が阻却されるのだと考えたい。何が違うのか。違法性が阻却されると言ってしまえば、正当防衛は法理念として認められてしまう。すなわち、自分の生命が危険にさらされた際は、相手の生命を危険にさらすことも「やむをえない」ということが、法理念として認められてしまうということです。これは、理想として特例といえども殺人、傷害を認めるということになる。しかし、相手の生命と自分の生命のどちらが尊いか誰にも判断などできないのだという理想(これは、近代法の理想でもあると思います)に特例を設けるべきではない。理想は理想として固持すべきだと考えるから(じゃなくては、なしくずしに理想が現実に接近していってしまう、現実の追認になってしまうと危惧するわけですね)、そこで法理念からは正当防衛を認めることはできないが、個人には責任がないと言い方で、正当防衛を認めていく(責任阻却説、これも有力な考え方です。もちろん、この考えにも多分違法性阻却説からの再批判があって、それはだいたい次のようなものになるのではないか。すなわち、特例を理念することで、なしくずしに理念が現実に接近してしまうというが、逆に責任阻却説をとれば、むやみに個人の責任の名のもと特例が認められてしまい、結局理想を形骸してしまうのではないか。だからこそ、逆に理想の特例を法規範として確立すべきなのだ。以上の批判は正当だと思います。しかし、わたしは理想を理想として固持することに意味を感じる。というのも、法規範は、理想は強制力を伴うものなので、なるべくならない方が良いからです。もちろん、この考えにも批判は考えられる。個人の責任のもと特例を認めることは、逆にとりわけ相手の自由をむやみに侵害することになりはしないかというものです。わたしは、これに対して自由は個人的なものであり、理想、というか規範によって維持されるべきものではないと答えます。理想、規範によって維持される自由は、自由ではない。これも、わたしの理想、わたしは自由という価値を信奉しています。今まで、私が述べてきた理想と矛盾しないと思います)。わたしが、理想と現実との関係で言いたいのはそういうことです。「現実の追認」を懸念していたのは、要するに理想は理想として固持すべきであり、むやみに現実を理念、理想に繰り込むべきではないと言っているのです。だいぶ、話が迂遠になってしまいました。言い残し、とりこぼしはあると思いますが、ここまでをまとめて、かつ補足してみましょう。理想によって維持ざれる自由は自由ではない。むやみに現実を理想に織り込むのではなく、なるべく理想は固持されるべき(現実に照らし合わせた理想の修正を、むやみに理想に反映させるべきではない)。というのも、理想は個人の自由を侵害する強制力を伴うので、なるべくない方が良いからである。あなたの理想は「相手の文脈を愛せ」この理想の特例、現実を織り込んだ理想が「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」。わたしは、かかるあなたの理想を以下の二点において批判します。一つは、あなたが「むやみに」理想に現実を織り込んでいる、つまり現実と照らし合わせて修正された理想を語ることで現実を追認してしまっている点。わたしは、「相手の文脈を毀損するのもやむをえない」という“現実的な態度”を理想に織り込むのは、「相手の文脈を愛せ」の理想の反対を語ることになるので、到底両立し得ないと考えています。二つは、理想に現実を織り込んだことで、つまり現実と照らし合わせて修正された理想を語ることで、個人の自由、特に相手方の自由を侵害することになる点。実際、あなたは理想に現実を織り込んだ結果として「相手の文脈を毀損することもやむをえない」というわけです。私の理想は、「相手の文脈を愛せ」であり、たとえ「自分が相手の文脈から排除される」という現実の不利益をこうむることがあるとしても「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せ」、すなわち「相手の文脈を愛せ」の理想は揺るがない。現実の不利益に対しては、「自由にやればいい」すなわち、その時々の個人の責任で判断すべきである。こんな感じでしょうか。なお繰り返しますが、わたしは「自分が相手の文脈から排除され」たときこそ、「相手の文脈を愛せ」という理想を貫くべきだと言っているのですね。あなたの個別のケース、すなわち今回ならば「ゴダール全部観なきゃ駄目」というケースにつき、わたしはかかる理想を貫いてもかまわないのではないかと言っているわけです。しかし、以上の話で明らかなようにかかる理想を貫くか否か、最終的な判断はあなた個人の責任に委ねられています。この点で、じゃあ結局「あなたの現実」を変革しえないではないかという誹りは逃れ得ないものと思っています(わたしが「つまらない」と言われる理由です)。しかし、このことは次の批判②で言うことに関わってきます。さて、あなたがわたしに行っていると考えられる批判②です。おそらく、あなたは次のように言っています。わたしは「相手の文脈を愛せ」と言うが、その言葉をわたし自体は守っているのか? つまり、理想を押し付けることは当の理想に反することになるのではないか? この批判も一般論としては完全に正当です。わたしが「相手の文脈を愛せ」と言うとき、わたしは何よりもまず身をもってそのことをあなたに示さなくてはならない。「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せ」と言うならば、当の主張が受け入れられなくても、まず相手の言い分を聞かなくてはならない。つまりこの場合は、あなたの言う「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」という「現実の認識」(わたしにとって、それはあなたの理想にすぎないのですが、あなたが「態度」「指針」と言うとき、結局言いたいことは「現実の認識」というほどの意味なのだと推察します。今気づきましたがわたしは、その認識にもイデオロギーがあると批判していたのかもしれません)に立って、わたしは話を進めていかなくてはならない。このことに異論はありません。ただ、わたしとしては、おそらくあなたの言うように理想は共有すべきものであるが(このこともまた理想です)同時に強制力を伴って押し付けられるのが理想だとも考えています。要するに、理想、この広い意味で理念というのは直感として受け入れることができるか否かにかかっているのではないか。理想や理念について言葉を費やすことはいくらでもできるが、pはpであるほかないという言い方からも明らかなように、現実に存在しない理想、理念は直感によってしか判ずることができないと思っています。だから、たとえば、「人殺しはいけない」という規範を語る殺人罪の規定は、直感にしか理解しえないので、なぜ「人殺しはいけないのか?」という疑問がしばしば語られる。かかる、規範すなわち理想、理念を了解するには別の理想、理念を持ち出さざるをえないのではないか。たとえば、あなたの生命が保証されているのは、殺人罪によって生命という法益が保護されているからであって、その法益をあなたが殺人を犯すことで侵害することは、あなたの生命の保証を損なうことになる。もし、あなたがあなたの手で殺人を行うのだとすれば、あなたはあなたの手であなたの命を殺めるのに等しい。こういう言い方を、例えばする。しかし、結局これは理念、理想の話ではないことは瞭然である。つまり、直感とは受動的な働きと言えるかもしれないがそれ以上に“暴力的な作用”でしか
ないのではないか。別におかしな哲学(電波 涙)を言いたいわけではない。直感が“暴力的な作用”だということは、たとえば殺人罪の規定を万人に納得させるために刑罰が科せられていることを考えれば良いように思う。刑罰で脅されて、初めて「人殺しはいけない」と納得してしまうのである。人殺しは別に良いのだが、刑罰が嫌だから人殺しをしないのだという抑止力が普通刑罰には語られるが、実は刑罰の脅しが人に「人殺しはいけない」のだという理念、理想を納得させているのではないか。むろん、刑罰のほかにも道徳のような社会規範を考えても良い。そのような社会規範が存在することで、当の規範を了解するのはなぜなのかと問うているのだ。pはpであるという理解のほか、pについてはできないし、だとすればpが迫ってくるそのありさまは暴力的と言っても良いのではないか。と、ここまで長々書いてしまったが、要するに理想に暴力はつきものであり、相手に理想を了解させるには一方的に押し付けるやり方をとる必要があると言いたいわけです。だが、もちろん言葉を費やすことはできる。もっといえば、民主的なプロセスを経て、理想について「共感」することはできるかもしれない。あなたが望んでいるのは、そういうことだというのはよくわかる。しかし、わたしとしてはこれ以上どうすれば良いのかわからない。「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」という理想を受け入れることはできない。わたしは、その理想を批判するために今まで述べてきた理想を言うだけです。言葉を費やすことはできますよ。相手の文脈を毀損することを良しとすれば、「相手の文脈を愛する」という理想をあなたは破棄してしまうことになる…ちょっと待て。相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむをえないって何? 何となく分かっていた気になっていたが。どうやら文脈の意味を取り違えているようだ、我々は。わたしは、文脈を相手の文化的、思想的背景、要するに相手の価値感というほどの簡単な意味で使っているが、あなたはもう少し開かれた意味で使っているのだね? よくは知らないが、クリステヴァなんかが言ったという間−テクスト性みたいな? や、知らないけど。わたしは、おそらく文脈という言葉をcontextの狭義の意味で使っている(つまり、単一のモデル間の背後に複数の参照先を想定している。わかりづらね、まあ通俗的な意味ですよ)。あなたは、どういう意味で文脈という言葉を使用しているのか? Q.4 

Q.2 「打ち合う」こと、ことさらわたしから「パンチを繰り出すこと」、いわば「批判をすること」についてはどう考えているのか。
Ans. 繰り返しになりますが、理想を視座にした批判において暴力は不可欠だと考えます。つまり、一方的に理想は押し付けざるをえない。しかし、限界はあるにしても理想について共感の道を探ることは可能だと思う。が、それは今やっていることだと思っている。つまり、言葉を費やしている。で、あなたの文脈を愛することは可能だが、この点、あなたの文脈を批判することを目指しているので、今回はあなたの文脈をそのまま受け入れることはできません(しかし、たとえばゴダールを全部観ろというなら観ます)。

Q.3 そこについて何も語らずに「それで良い」と言って、自分が批判されると、さっそく逃げ出そうとする、それはどうなのか。
Ans. 別に逃げ出してはいませんよ。立場が違うのです。詳しくは、Q.1の「自由」に触れて
いる箇所で述べていることになるかな。

Q.4 「自分もまた批判を行っている」という現実を認識しないつもりなのでしょうか?他人に
対しては理想を主張し、自分がその理想に該当しないと指摘されると逃げ出すのでしょう
か。
Ans. わりとこれはクリティカルな問いなんですね。繰り返しますが理想に不可欠な暴力という問題は、結局まだわたしはよくわかっていない。ただ、暴力を排除するためには権力の暴力に頼らざるをえないということはある。当の権力の暴力をどうするかは、難しい問題です。まあ、ちょっとピンとこない話かもしれないんで、もう少し話に即して再度答えますと、自分もまた批判を行っているという現実はよく認識しています。他人に対しては理想を主張し、自分がその理想に該当しないと指摘されると逃げ出すのはどうか? というあなたの問いには、だからあなたの理想は受け入れることはできない、わたしはその理想を批判するために理想を言っているのだという言い方になります。おそらく、あなたはわたしの“パフォーマティブな態度”を問題にしているのだろうが、“コンスタティブな”文言だけを問題にして欲しい。いや、これは難しい問題ですよ。とりあえず、わたしは古典的な態度を維持して、コンスタティブな文言だけを言うしかない。というか、十分にパフォーマティブな態度でも「相手の文脈を愛せ」を実践していると思うけどね〜(あなたの理想を受け入れるか否かは別の問題でしょう)

Q.5 君は理想だけを語って実効的な手段を語っていない。その意味で重要な点を疎かにしている。実効的な手段のために理想を吟味しなおす意義を、「現実の追認」を恐れるあまり、
唐突に「追認にすぎないものにしてしまうなら」という限定のもと、語られないままにしてしまっていることに気付いていますか? またそのことは認めますか?
Ans. まあ、Q.1に書いたことだけど。実効的な手段のために理想を吟味しなおすことは、現実を理想に織り込んでしまうことになり、そのことで①現実の追認になる②個人の自由を侵害する以上の点から、わたしはなるべくやりたくない。こと、「相手の文脈を愛せ」に関しては、理想は維持されるべきだと考えてます。理由は、Q.1に詳しく述べられています。

Q.6 「現実の追認にすぎないものにしてしまうなら」ではなく、「どうしたら現実の追認ではない、批判的な理念を維持できるか」と議論を展開すべきではなかったのでしょうか?
Ans. これは、理想および権力の暴力の問題に関連して難しい問題だと思うよ。それこそ、デリダとかが中期以降に言うのは、こうした問題なんじゃない? この際、逃げていると言われてもかまわないけど、ちょっとわたしにはわからないな。自分の頭で考えることは、今はできないと思う。わたしは、古典的な態度を当面維持します(しかしむしろ、あなたに何か考えがあるなら聞いてみたいものです。本当に)。



Q.7 「自分の文脈もまた、他人の文脈に連なっている」というのは、自分の文脈は、対話中のその相手の文脈と一見異なっていようと、別の他人の文脈に連なっていることには違いない、ということを指しています。それでもわかりませんか?(Q3)
Ans. ここで、文脈の説明がなされているわけで。えーと、よくわかりません。というか、それで相手の文脈を愛することが、相手の文脈を毀損することになるというメカニズムがわかりません。説明してください。 Q.5

Q.8 理想のために自らの文脈を棄てるとしたら、(違っていたら指摘してください Q4)君は「文脈」というものを、僕と違った形で認識しているのかも知れない。僕からすれば誤った認識をしているように見える。文脈は棄てることはできないのではないか。
Ans. わたしは、だから結局「文脈」という言葉を「価値」という言葉と同じに使っていたようです。あなた言ったように価値は人間に複数備わっているのだから、一つの価値を捨てても死にはしない。あなたの言う文脈とは何でしょう?


Q.9 君が自分の指針で苦労してこなかったというのは、既に流通済みの「相手の文脈を愛せ」という不可能めいた理想を、自分に都合よく勝手に解釈し(つまり「相手の文脈を愛せ」という言葉の文脈を愛さずに)逃げたくなったら逃げる、という、直感的な「それで良い」を利用してきたからではないか。

Ans. それはそうかも。言わばQ.1で書いた「責任阻却説」の難があるところです。あなたの批判を、この点認めましょう。

Q.10 「貨幣はまったく価値を代替しえない」と主張するのでしょうか?これは僕は
現実から乖離した理解だという意味で批判します。
Ans. うーん。別に、貨幣が価値形態の表現物だと言ってもかまわないんです。貨幣は価
値を代替すると言ってもらってもかまわないですよ。だけど、代替する価値なんかそもそもない、だから「貨幣はまったく価値を代替しえない」とわたしは主張しましょう。現実から乖離した理解だというが、この場合の「現実」とは? まさか、「価値」なるものが現実に存在すると言うわけではないのでしょう? ここのところを、よく考えてください。教科書には、貨幣が価値形態の表現物だと書いてあっても、そんな「価値」はない。というよりも、自明には価値があるなんて言えない、市場や政府があるから価値があるんだとか、そういう理解はちがうと言っています。「価値」は、今までの私たちの議論を参照すれば明らかなように(明らかじゃないとあなたは言うのだろうね)、「理想」のことだと言い換えてもらってかまいません。見ようとしてみなければ、みつけることができないもの、それが価値です。別に現象学的還元といっても言いし、「批判」と言っても良いが、とにかく価値は想像上の産物であるということは忘れないでください。貨幣を何かの代替物だというなら、まだ商品の代替物だと考える方が自然です(もちろん、そんな風に考えても駄目。むしろ、貨幣は貨幣の代替物でしかないとわたしは考えています)。


Q.11 「人口に膾炙している表現はそれなり尊重すべき」についてを検討したいと思います。   
君は「理解はできないでもないが、意味がない」と言っていますが、要するに「理解できない」ということでしょう。違いますか?(Q6)言い換えるならば「それなり」ということの「意味」が理解されていないと思います。
Ans. 理解していますよ。それは、次の質問に言われることでしょ。

Q.12僕は特殊な表現が不要だとは言っていない。しかし、特殊な表現が、「わかりやすい」表現に結び付かないなら、そこに批判が向けられる必要があると言っているわけです。わかりませんか?(Q7)
Ans. ううむ。だからねー、これは難しいことを言っているのだよ。本当は。あなたは、おそらく「理想」を共有化する努力をわたしが怠ろうとしていると批判するだろうね。「意味がない」と言ったのは、別に「理想」を共有化する努力を怠ることを正当化しているわけではないんだよ。理想、いや理念を理念として語るのに際して、意味がないと言ったのだね。しかし、こう言ってもわかんないだろうね。まああれだ,論理哲学論考のような文章を考えてもらえるとわかりやすいよ。あの哲学はあの文章でしか実現されなかったと思わないかい? 別に、わたしは大哲学者と自分を比べているわけではなくてですね(それにわりと彼は平易な表現を使うしね。論理記号は勉強しなきゃわかんないけど)、理念を語るのに際して用いられる「特殊な表現」には意味があって(あなたもそれは認めるでしょう)、
その「意味」さえ達成できれば人口に膾炙していない表現を使用することも厭うことはないということです。理念を語るに際して大切なことは、結局のところ体系の無矛盾性だろうからね。これが、「意味」です。で、わたしの話に大した体系なんかはないんだが、たとえば「貨幣は価値を代替する」と言われると、たとえそれが人口に膾炙している表現でも認められないということになるわけです。繰り返しになりますが、わたしにとって価値は想像上のものであり、「貨幣は価値を代替する」という表現に、価値をあたかも現実に存在しているものとして扱わんとする考えを汲み取ってしまうことも可能なので、わたしはかかる表現を認められないと言っているわけですね。

Q.13 関数的、という表現には「来歴」という歴史的でかつ現実的な見方が欠けているように思えます。違いますか?(Q8)
Ans. 欠けてます。すごい勢いで。「来歴をともに辿ることで、わかりやすい表現で、両方を接
続することができるだろう」というあなたの考えには賛同してもかまいませんよ、そうして理想の共同化を図ろうとしているわけですね。しかし理念、概念には何でも「来歴」が存在し、その「来歴」を辿ることで理念、概念に関して真の理解を得られるという考えを持っているなら、それは捨てた方が良いと思う。関数的という表現は、あの場所では正当だ考えています。

Q.14 概念にもまた「来歴」があるので、そこを参照することで、「わかりやすく」表現するこ
とが可能だと考えています。
Ans. しかし、これは誤解なんじゃないかなあ。なぜ、可能かと思うの説明してください。り
んごは、丸くて、赤くて、果物で、青森県産で…なんて言っても当のりんごを知らなき
ゃわかんないでしょ? りんごはりんご。直感でしかわからない、いえない。

Q.15 理念的な「価値」の来歴は何か?
Ans. いや、だから価値は理念的なんだから、「理念的な」ということがおかしい。まあ、良い
ですよ。あくまで、わたしの理解を語りますよ。そりゃやっぱり、どうして金持ちが生ま
れるんだってところから価値は出てきたんじゃないか? いや、つまりさ、A.商品と商品の交換(商品=商品)、B.商品×貨幣(工場で労働者が車を作る。その材料代金、労働者のお弁当代とか)=商品×貨幣(工場主が車を売って儲ける代金)A.においては、ことさら価値なんて考える必要はなかったんだよ。牛一頭と鶏四羽が等価に交換されているときには、牛一頭は鶏四羽分の価値があるなんて考え方はしない。だって、場合によっては牛一頭と鶏五羽で交換されたこともあろうし、逆に三羽と交換することもあるだろう。これはね、牛一頭には本来価値をつけることができないからなんだと(牛さんの使用価値を全面的に否定しているわけではないよ、ここが難しいところかな。つまり、牛さんが頑張って鋤をひいてくれるとか、お乳をだしてくれるとか、ばらされてお肉になっちゃうとかそんな優しい牛さんの効用自体を否定はしていない。しかし、牛さんを交換するときに明らかになるのが、牛さんの交換価値の謎ということ。この謎をわたしは「価値はない」と言っているわけですね。間違った理解を植えつけることになるかもしれないが、あえてこう言わせてください。「牛さん、お乳ありがとう」という気持ちがあって、初めて使用価値が成立するように、交換価値も「何かがあって」、あるいは「何かが起きて」初めて存在するものらしいということを念頭に置いておいて欲しい)。これをさ、貨幣経済のアナロジーで捉えて、鶏一羽につき鶏インフレなるものが起こって、牛一頭につき鶏百羽になるとか考えるのは愚かでしょ。だから、A.の場合物価の変動も起こらない(起こるという言い方もあるように思う。これが普通の古典経済学なのかな?)。ところが、B.になるとさあ大変。物価は変動する、インフレは起こる、しまいにはなんだか金持ちと貧乏人の開きが大きくなってきやがった。これには、どうやら貨幣って野郎が一役買っていやがりそうだが、いまいちその秘密がわかんねえ。B.において、左辺と右辺は等価のはずなのに、どこに余剰資本が生まれやがったのかと。この余剰資本が貨幣になりやがるというとこまでは見当がついてるんだ(重商主義で金を蓄えたとこらから貨幣経済はスタートする)。で、ロンドンの図書館で変わったおじさんがひらめいちゃったのが、ちょっとこじつけ気味ではありますが、B.の左辺においては、労働者の血と汗と涙が加わっているから、その血と汗と涙分右辺に生息する工場主等資本家が儲かる、余剰資本が生まれるんだと。それを価値と名付けましょうと(交換価値、労働価値)もちろん、今でも価値が労働価値だなんて主張する気はないんだけど、とにかくこれで価値が自明のものではないと私が繰り返し言っていることを理解してもらえただろうか。これが、わたしの言う「価値」の直截な来歴だよ。そしてわたしは前回に「貨幣が流通していることが、言わば貨幣の価値を決している」と言ったわけです。あなたが言い換えた「貨幣が流通していることが貨幣に価値を与えている」という言い方でも問題ありません。拙い表現を謝ります。「その限りで貨幣は価値を代替しうる。ではどうして貨幣が流通しているのか?どうして貨幣が価値を代替しうるのか?繰り返しになりますが、市場があり、政治があるからです」というのは、まあそう言いたかったらそう言えばよいだけです(わたしが、「貨幣は価値を代替しない」と言うことで言いたいことがあるとすれば、現実に存在する何か価値なるものがあって貨幣がその価値なるものを代替しているわけでは断じてないということだけですから)。ただし、あなたの言った『市場も政治も流動的なので、「決定」ではなく常に「暫定」』というのは何ですか? 貨幣の価値が変動するということを言っているのでしょうか? まあ、言いたいことは分からないではないですが、変動するのは「価格」と言っておいた方が意味が正確な気がします。たしかに、貨幣は市場や政府から信用を与えられて価値を得ていると言って良い。詳しくは分からないが政府の信用が下がったから、貨幣の価格が下がったと言いえる自体はあると思う。このとき、貨幣の価値が下がったと言っても良いが、価格という言葉の方が直截だと思う。価格が下がったのは、信用が下がったことで、貨幣の価値が下がったからだという言い方のときにおいて初めて「価値」という言葉の意味があると考えます。念を押しておくと、価値は現実には存在しない、貨幣と価値を混同してはならない(イコールじゃないし、別に表裏一体とかそういうものでもない)、価値と価格は違うということです。

Q.16 「あれは映画ではない」といえば、それは単に、キャシャーンの持つ価値を否認していることになりませんか。
Ans. なりますね。認めます。この限りで、つまりキャシャーンに備わっている最低限の「映画?」としての価値を保障するために「映画以上、映画以外の映画」という言い方をすることにまあ反対しません。しかし、ですね、何も映画というジャンルの価値によってキャシャーンの価値を保障しなくても良いのにね。と思うのです。

…『アワーミュージック』については、またあとで。