返事

「話者の態度」を問題にしないで「聞き手の態度」だけを、それも結論として「とにかく聞け」というだけにするなら、僕はそんな態度は不誠実だと思う。君は「聞き手として誠実」であることが、そのまま対話の片割れとして誠実である、と思いますか?(Q1)


誠実? なぜ、誠実ということが言われるのか、正直ピントこない(後で、再び問題になるだろう)。漠とした言い方になる。が、要するに、話者の立場からコミュニケーションを捉えたときに、存在する絶望については認識している。しかし、そこまで私の理論的な認識は及んでいない。わたしは、それを”実践”の形で考えていこうと思っていた。この点でも、あなたとの対話は実に有意義でした。感謝している。


理論と実践は同じであるかもしれない。が、わたしはとにかくそれを理論とは別の形式で考えたい。わたしの実践は、常に個別の言葉になるのではないか? この直感に従いたい。少なくとも、普遍的な理論で話者の絶望を考えることはできないと思っている。保坂和志さんも、大体同じことを言うのではないか。


あなたは、個別の言葉が問題にされる話者の絶望を問題にしているのだと言っている。わたしはそのように理解した。話者の絶望と聞き手の倫理を、如何に融和させるか。我々の今回の対話のテーマを総括すると、以上の文言に集約されるのではないか。あなたは、恐らく以上のテーマを「話者の…誠実」すなわち、話者の倫理として提出しようとしているように思える。「話者の絶望と聞き手の倫理」であれ、「話者の倫理」であれ認識としては、当初からお互い抱いてきた領域を一歩も出るものではない… 


しかし、話者の絶望とわたしが分けて言うとき、主にわたしは話者の立場から考えるコミュニケーションの問題を、個別の言葉、要するに実存的な問題に回収してしまっている。この点、あなたが話者の倫理と言うとき、ある意味秘教的な実存を問題にせず、あくまで普遍的な言葉で「話者の立場から考えるコミュニケーションの問題」を捉えようとしているように思える。だが、普遍的な言葉を「話者の立場から考えるコミュニケーションの問題」に対応させることで、「聞き手の倫理」が破棄される危険があるとわたしは考えた(事実、「相手の文脈を毀損するのもやむをえない」とあなたは言った)。


とまれ、あなたの言葉の先を読もう。

聞き手に徹する自由はもちろん常にあるだろうと思う。その自由を侵害したいとはとくには思わない。


しかし、矛盾する自由として、相手に返事を期待する自由も在り得ると思う。それも性急な感情を伴って。その感情は報われないかもしれないけれど、しかし「期待する自由」は考えられてもいいと思う。必ずしも報われないことについても思考する必要はあるだろう。


相手が「報われない可能性のある態度」をとるとき、自分がどう対処するのか、というのが問題なのよ。


ここに語られているのは、あなたの感情だろう。あなたの「感情」、それは実存的な問題に回収されるべきなのでは? 普遍的な言葉で語ることはできるのか? 言うまでもなく、わたしが問題にしたのは、あなたの聞き手としての態度です。だから、普遍的な言葉で語り得た。いや、違うか。少なくとも、あなたにあなたの聞き手の態度を言うことはできると思ったから、言った。ただ、繰り返しになりますが、あなたにおいては「話者の絶望と聞き手の倫理」と(わたしにおいては)分けて考えるべきところを、「話者の倫理」と捉えているので、本来、あなたは話者の問題を考えているものが、わたしにはあたかも聞き手の問題を考えている、そしてあなたの聞き手としての態度は、一言で言えばわたしの信じる「自由という価値」に「倫理的」に違反するものであったので、わたしは思わずそれは違うんじゃないかと言うことになった。もちろん、わたしが「思わず」と言ったところで、これはわたしの信念の根拠のない押し付けに他ならず、したがっていかなる点においても、本来わたしはあなたに言うべきことがない。むしろ、言ってはならない。わたしの考えを推し進めれば、そうなる。だからあなたが、わたしを権威主義と言ったのは非常に正当で、たとえばドイツにおいてはナチスを賛美する言論は自由を侵害するものだから、かかる言論の自由については、たとえあまねく言論その他表現の自由に自由という価値そのものを保障する機能が認められるほどに重大なものであったとしても、ナチス的言辞に言論その他表現の自由そのものを毀損する恐れが認められるので、「ナチスを賛美する言論」に限っては国家(という権威の名のもと、という暴力装置によって)によって規制される(戦闘的民主主義)。しかし、日本においては少なくとも名目上はいかなる言論その他表現の自由も認められる。これは繰り返しになるが、表現の自由に自由という価値そのものを保障するという重大な価値が認められるためである。わたしが、「相手の文脈を愛せ」と言うとき、結局わたしは戦闘的民主主義の立場を採用しているのである。しかし、それは国家や憲法という権威が無ければ許されない態度なのだろうか? 表現の自由及び自由そのものの価値に重きを置けば「許されない」(それに国家や憲法という権威に関しては「ナチス的言辞」か否かの認定は、当然慎重になされるという事情は考慮されるべきだろう)。


しかし自由そのものに価値を置くから、表現の自由を毀損する恐れのある「ナチス的言辞」に関して、国家ではなく、市民(胡散臭い言葉だ)が批判、批評を加えるのはどうか。市民(そして市民と言うのは概ね、権威を楯にした知識人)の自由という名の下に、「ナチス的言辞」の自由が侵害される。ここには、少数者の言説が抑圧される構造がある(お? やっと、アワー・ミュージックの話になりそう? 文学ならジュネ)。


「相手の文脈を愛せ」は、言表内容において少数者の言説を保護し、言表行為においては少数者の言説を抑圧してしまう。うーん。これは、『存在論的、郵便的』の理論圏内かな。後半が意味不明で読めなかったのだよねえ。読むのは大変だなあ。

君はどうして僕に忠告をしてきたのだろうか。君は僕の態度に「閉じたコミュニケーション」を見てとったらしい。僕はこの「誤解」について弁解する必要があると思う。二つ理解して欲しい。「僕は閉じたコミュニケーションとは関係ない」「閉じたコミュニケーションなど存在しない」言うなれば「相対的に閉じたコミュニケーションであっても、絶対的に開いている可能性に向けた態度はありえる」それを僕は理解している、ということ。


その「絶対的に開いている可能性」、つまり「閉じたコミュニケーション」というモデルを否定する現実を、「理念」的でしかないもの、その非現実性を、君が認めることができれば、僕が言う「サービス」へのナイーブな期待というのは、単なる「甘え」ではなく理解してもらえると思うんだがどうだろうか(Q2)


うーん。整理しましょう。まずですね、絶対的に閉じたコミュニケーションのモデルは現実は存在しない。現実に存在しないモデル、理念で現実を批判しても意味がない。とあなた言うわけだ。ここで、あなたの言う現実に存在しないモデルというのは、恐らく不正確で「理念として」「原理的に」絶対的に閉じたコミュニケーションというのは存在しないとあなたは言っているわけですね。


そうではなく、「理念としては考えることができたとしても、現実に存在しない以上、そのような理念をもって現実を批判しても仕方がない」と言うなら、それは違うということは以前に説明しました。現実に存在しなくとも、相対的にでも閉じたコミュニケーションと言うものが考えられるとすれば、わたしはかかる「相対的に閉じた」点、すなわち現実のある部分を理念として抽出して批判しているわけです。現実をむやみに理念に取り込まないのは、一言で言えば自由という価値を保障する為でした。あなたはかかる方法に関して構造主義的である、あるいは静的であるという批判を行ったのですが、それはわたしの方法の性質を言い当てているだけで、その実無価値な内容です。しかし、あなたがそうした言葉で言いたかったのは、要するに「話者の倫理」ということなのでしょう。この意味で、あなたの言っていることは分かる。しかしわたしは、かかる問題を話者に関しては「個別の言葉」として実存的な問題に回収し、これから聞き手の問題を分離して「話者の倫理」すなわち「相手の文脈を愛せ」という風に構成するわけです。わたしがあなたに「甘え」というのは、それがあなたの「個別の言葉」、あなたの実存としての感情が問題になっているからだと看取したからです。倫理に「甘え」という言葉は妥当しないが、実存、すなわち生き方には「甘え」という言葉が妥当する。


さて、「理念として」「原理的に」絶対に閉じたコミュニケーションというのは存在しないとあなたが言うならばどうなるか。この点に、わたしは異論はありません。むしろわたしは、あなたの考え方が、閉じたコミュニケーションを想定しているのではないかと言っているわけです。これは再三指摘してきたことです。

Aにとっての「1」と、Cにとっての「1」は厳密には違うと考えています。加えて言えば、Bの文脈としての「4」とCの文脈としての「4」とは違う。だから、Aが「4」を文脈として組み入れることができるかどうかは、おっしゃるとおりアクシデントを期待するしかないだろうね。これは了解できてると思う。


例えば、あなたがこのように言って初めてあなたは開かれたコミュニケーションを想定し得たと、わたしは考えている。


あなたの言う「僕は閉じたコミュニケーションなどとは関係ない」とは、わたしは思えなかった。

君の僕の態度についての見解がとにかく的外れだと僕は思うんですよ。たとえば、僕は「共通点を持て」とは言っていない。しかし君はそれを仮定して僕に「不遜だ」と言う。見当違いだよ。


分有って言うんだよね? しかし、「相手の文脈を毀損しても構わない」というのに関していかがでしょう。わたしは、かかる言葉からあなたが「共通点を持て」と言っているのだと思いましたが?

相手の文脈を愛する、それはわかると言っているでしょう。それについてどうしたらいいのかを考えたい、と言う僕と、それをただ提示するだけで満足する君と、どっちが硬直しているか、君にはわかりますか?君が僕の文脈を愛するなら、君はただ提示するだけではなく、僕から何かを汲み取るべきだろう。僕は、君が受け取りやすいように硬直しているんだから、君から受け取るのは硬直したテーゼだけなんだから。そしてそれは君が同調してくれているので、もう十分に済んでしまっている。あとは君が自分で吐いた唾を被ってくれればいいわけですよ。ギャンブルで言うなら、君は勝ち逃げをしようとしている。だけどこれがギャンブルの話ではないのは自明だろう。誠実さや愛の問題なんだから。


本当にねえ。「自分で吐いた唾を被れ」ですか。


被ります。負けることが、わたしの真骨頂ですよ! 自由という価値を個別には信奉することはできるが、他人に了解させることは困難である。わたしはこのことを学んだ気がします(あ、別にあなたが自由という価値を信奉していないとは言ってません)。あなたとの対話のおかげで、初めてポストモダン的言説の意義が見出せる気がします。たとえば以下の東さんによる紀伊国屋書店人文書紹介文のこの部分。


偶然性・アイロニー・連帯−リベラル・ユートピアの可能性 リチャード・ローティ 岩波書店

ポストモダンの本質というのは、簡単に言うと、「自分が信じていることを人に伝えるときに、それを皆が信じるべきだと言えなくなるということ」


これも、わたしは読んだ方が良さそうだ(そして、これを課題図書にしますか?)。


ここから先は、わたしにとって今はまったくの未知の領域。あなたが、真に問題にしている領域の話になると思われます。しかし、唾を被っているだけなので、もはやあなたの応対は期待しません。仕事も忙しいだろうから、気が向けばお返事くださいな。ただ、便宜上「あなた」という呼称等これまでの慣用でいきます。これは許して欲しい(非常に気持ち悪い書き方になりますが 笑)。


さてとりあえず我々の対話に話を引き戻せば、話者の問題を実存的に捉えて「絶望」するのではなく(なお、わたしはあくまで絶望から常に始めることができればと願う)、「話者の倫理」と捉えることで、言わば「自分が信じていることを人に伝えるときに、それを少なくとも相手は信じるべきだと言えるようになる」。恐らく、理論的な可能性はかかる点に存するように思う。「聞き手の」倫理として考えられる問題を、あらかじめ「話者の」倫理に取り込むことで、話者は聞き手の問題を考慮することなく、話者の倫理に従った範囲で、自分の信じたことを言えるようになる。話者の倫理とは、そのようなものになるでしょう。従って、「話者の倫理」において考えられるべきことは、「倫理」の内実ということになる。かかる内実にかつては宗教的規範や共同体的規範が当てはめられていたのは想像に難くない。最近では、公共(ハーバーマスですか?)とか言うのだろう。名目はどうあれ、「具体的な規範」(あなたが言いそうな、或いは言っていたような言葉でしょう?)の考案が肝要である。それは、例えばドイツの裁判所において「ナチス的言辞」か否かを判別する際の裁判所で用いるべき、厳格な事実認定の判断基準のようなものになるのではないか(素朴かもしれない。しかしとりあえず、手持ちの言葉でわたしは話を進めているというのを了解して欲しい)? 実際のところどうなのかは知らないが(調べなくてはならないか)図柄にハーケンクロイッツを用いてはならないだとか、いかなる場合、文脈においてもヒトラーに関して賛美の言葉を使用してはならないとかそういうものなのではないか。しかし、以上の規範を遵守する範囲でナチスに関する言説は許される。たとえば、ナチの刑法典に関する研究は許される。そういうものなのではないか。 


だいぶ、あなたの実存的関心からは逸れているかもしれない。何よりも、あなたは「話者の倫理」において、あなたの実存も同時に問題にしていたのだ。この点で、誠実という言葉が再び問題になる。

戦争に行かなきゃ戦争のことは分からないと言うが、戦争へは容易に行けないし、出来ることなら行きたくないこの俺の立場はどうしてくれるんだ?


わたしは、あなたがそのようなことを主張しているのではないかと問い、あなたの同意を得ました。そして、あなたは次のように言いました。

だから君が「戦争」を例にしたのは正しいね。もっとも僕は戦争というのは戦場だけで起きているものではないと思うけど。やはり「ここ」で止められないから、戦場で銃が火を噴くのだと考えていますよ。やっぱり、シリアスに考えるなら、「それでいいでしょう」とは思えないです。自分の利己的でその場限りの立場としては「それでいい」と思わなければやっていけないけれども、だからといって、それを理想とすることはできない。指針としても、「それでいい」と思えない場面を考えるべきだと思うよ


ここに、あなたの誠実が伺えると考えます。問題は、ほとんど『ゴーマニ(省略)』と同じレベルにきているかもしれない(涙) が、耐えよう。話を進めよう。「(戦争に行けなくても仕方がないと言うのは)自分に利己的でその場限りの立場としては”それでいい”と思」うことができない。思えない。かかる点にあなたの誠実が存するのではないか。わたしは特に「話者の絶望」として話者の問題を実存的ないし個別的な問題として理解しているが(あなたの言うように、この限りでその先を考えていない)、あなたは、かかる実存的ないし個別的な問題を「話者の倫理」として考えている。誠実という倫理的な言葉で語られているのは、倫理であると同時に実存的ないし個別的な問題なのである。かかる実存的ないし個別的な問題(要するにそれは個人の感情に集約される)を、理想とする必要はないのではないか(あなたは「聞き手の倫理」を実存的な話者の問題に回収するために、同時に理想を問題とせざるをえなかった)? いや、あなたの人生の「指針」としてはあってもよいものだろう。しかし、普遍的にこれを語ることができないのではないか? 理想という名の下、何かが普遍的に語られた瞬間に、それはあなたが実存において個別的に考えていたものとは違ったものになるのではないか? 「話者の倫理」には、以上のような問題も存するように思う…


この点、宗教的規範や共同体的規範が倫理の内実として認められれば、神の名の下に戦争に行くという普遍的目的が達成されかつ、神の名の下に戦争に行く己の感情も保障される、或いは、家族や隣人の為に戦争に行くという普遍的な目的が達成され、家族や隣人のおかげで己の感情が保障される。


宗教や共同体というマジックがなければ「話者の倫理」は成立し得ないのではないか? 

相手に共通点を「持て」と言うことは果たして可能だろうか。それは君に問うことは無意味だろう。君はわかっている。


しかし問いを発する必要は僕にはある。なぜならば、君はその問いについての答えを僕が持っていないと思うだろうから。共通点は二人の間に「見出す」ものだし、共通点が「ない」なら、それはただ「ない」。しかし「持てと言う」ことは可能だよ。言わない自由もある。
共通点を探すこともできるし、作り出すことも出来る。だんだん暴力的な匂いがしてくるけど。


事実と行為の問題なんだろうね。君ならもっと良い言い回しができるだろうと思うので恥ずかしいのだけれど。自由となんとかとか、になるのかな。


ともあれ、こういう暴力と文脈の話は、だけど「難しい」として放置するべき問題じゃなくて、まして「語れない」と片付けるべき問題でもないと思う。コンスタティブにパフォーマティブで、パフォーマティブにコンスタティブで、どちらにも落ち着かない、非常に重大な問題だと僕は思う。


僕はそういう話をしたいのよ。たとえばゴダールの『アワーミュージック』について。


分かっています。何とかしようとしている。しかし、ある種の疑いは捨てきれない…(何かは敢えて問わないでください)

返事

  • 「価値」について


権威主義と言われると悲しいね。しかし、その批判もまた正当だろう。権威主義という言葉を啓蒙主義という言葉に読み替えれば。実際、『貨幣論』(岩井克人 筑摩書房)を図書館から借りてきて読み返してみたところ、わたしの「価値」に関する理解は文中時にマルクスの言葉を借りて随所で批判されているように思えた。


わたしに誤りがあるとすれば、端的に言って、「価値は想像上のものである」と言い切ってしまうところに他ならないだろう。確かに、価値は現実に存在しえない以上、想像上のものと思える。しかし、価値を想像上のものとしてしまうことで、貨幣の価値は単なる妄想に過ぎないと言ってしまうことになるなら、それでは現実に流通している貨幣の存在をいかに説明するのか?*1 これが、あなたの繰り返し指摘してきた批判の要約になるだろう。もちろん、わたしはかかる批判に対しては「貨幣は、ただ流通することによってのみ貨幣たりえる」のだと説明してきた。あなたが、貨幣を政府などの外的な要因により貨幣の価値を根拠付けようとしたとき、それは違うと指摘した。これらの主張、指摘は、岩井の論旨に沿うものである。しかし、マルクスは次のように言うようである。『貨幣論』(p.106)から孫引きさせてもらおう。

貨幣形態は、他のすべての商品の関係の反射が一つの商品に固着したものでしかない。だから、貨幣が商品であるということは、ただ、貨幣の完成姿態から出発してあとからこれを分析しようとするものにとって一つの発見であるだけである。交換過程は、自分が貨幣に転化させる商品に、その価値を与えるのではなく、その独自な価値形態を与えるのである。この二つの規定の混同は、金銀の価値を想像的なものと考える誤りに導いた。また、貨幣は、一定の諸機能においてはそれ自身の単なる記号によって置き換えることができるので、もう一つの誤り、貨幣は単なる記号であるという誤りが生じた。…(中略)…しかし、一定の生産の様式の基礎を受け取る社会的性格、または労働の社会的規定が受け取る物的な性格を、単なる記号だとするならば、それは同時にこのような性格を人間の得手勝手な反省の産物だとすることである。これこそは、十八世紀に愛好された啓蒙主義の手法だったのである…


わたしがまさしく価値を「人間の得手勝手な反省の産物」としたことに対して、あなたは批判をするのではないか? この点、マルクスにとって価値とは労働価値であり、この労働価値を信じきっていた、労働価値の実体性につき疑い得なかったからこそ、上記の如き批判が可能になった。このことを、岩井は文中繰り返し指摘している。では、あなたは何によって価値を根拠づけているのか? 岩井は、貨幣が流通しているそのこと自体が貨幣の価値を決定するという循環論法で貨幣の価値を根拠づけるのである。岩井は次のように言う。

一度無限の「循環論法」としての貨幣形態Zが成立してしまうと、貨幣という存在はまさにその「循環論法」を現実として「生き抜く」存在となる。それは、ほかのすべての商品に直接的な交換可能性を与えることによって、他のすべての商品から直接的な交換可能性を与えられ、他のすべての商品から直接的な交換可能性を与えられることによって、他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えている…(中略)…全体的な相対的価値形態(社会化する主体)と一般的な等価形態(社会化される客体)というお互いがお互いを成立させている二つの形態を同時に演じている貨幣という存在は、まさに自らの存在の根拠を自らで宙吊り的に作り出している存在なのである

(『貨幣論』p.55〜)

他のすべての商品が貨幣に直接的な交換可能性を与えているから、貨幣は他のすべての商品に直接的な交換可能性を与え、貨幣が他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えているから、他のすべての商品は貨幣に直接的な交換可能性を与え…ているのである。すなわち、他のすべての商品が貨幣に直接的な交換可能性を与えていることと、貨幣が他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えていることとは、お互いがお互いの根拠となっているまさに宙吊り的な関係になっている。真理と誤謬、本質と外観、実体と幻想といった二項対立が永遠に反転し続けてしまうのである

(『貨幣論』p.57)

それ自体は何の商品的な価値を持っていないこれらのモノ(紙幣等貨幣)が、世にあるすべての商品と直接に交換可能であることによって価値を持つことになる。ものの数にも入らないモノが、貨幣として流通することによって、モノを越える価値を持ってしまうのである。無から有が生まれているのである。ここに神秘がある

(『貨幣論』p.67)


以上の引用部分には、あなたがこれまでみせた思考に近しいものを感じるがどうだろうか?
それにしても、なぜ岩井はことさら「貨幣として流通することによって、モノを越える価値を持ってしまう」と言うのだろうか。なぜ、マルクスのように「価値」を護持し続けるのか。端的に、わたしが言ったように「価値はない」と言うことはできなかったのだろうか?わたしが価値は自明に存在しないと言っているわけで、空間を“批判”によって見出すことができるように、価値をある種の手続きを辿って言い当てることはできると言ったとき、わたしは岩井と同じ認識を共有しているとは言えないだろうか? しかし、マルクスが労働価値を信じたように、岩井は価値を信じているのである。少なくとも、価値形態論においては。一連の、岩井の引用は、マルクスの価値形態論を岩井流に敷衍した理論である。


岩井は、価値形態論と価値交換論を混同してはならないと言う。

価値形態論で論じられるのは、与えられた商品世界の中で、価値の担い手としての商品がお互いにどのような関係を持たなければならないかという問題である。そこでは、言わば主体も客体も共に商品であり、話される言葉は「商品語」である。これに対して、交換過程論において論じられるのは、モノの所有者同士の現実的な交換を通して、単なるモノがどのようにして価値の担い手としての商品へと転化していくのかという問題なのである。そこでは、主体は人間であり客体はモノである。モノの所有者としての人間同士が交換のために話し合う言葉はもちろん「人間語」である。実際、後に我々自身が交換過程論を取り扱う時明らかにしてみるように、いくらモノの寄せ集めの中に所有者の主観的な欲望を仕込んでみても、それが商品の世界へと転化していくためには「歴史の偶然」とでも言うべき無根拠な出来事の介入が必要となる。形態の論理と過程の論理、いや関係の論理と生成の論理との間には越え難い断然がある。そして、従来この断絶をまったく無視してきたことが、価値形態(そして交換過程論)の解釈をめぐる多くの混乱した議論を生み出してきてしまったのである


価値とその表現形態としての価値形態の区別の必要性すらさほど認めていない(価値は理念であり、価値はないものであると考えているから。価値に実体性を認めて初めて、価値の表現形態を考える素地が生まれるのである。例えば『貨幣論』p.17参照)わたしは、当然、価値形態論と交換過程論の区別をしていない。わたしに誤りがあるとすれば、またこの部分にもある。岩井は価値形態論においては、貨幣の価値を信じている。だがそれは、もはや言うまでもないことだろうが、貨幣の価値を信じない限りは現実に流通している貨幣の存在をいかに説明するのか?という問いに価値形態論において答えを与えることができないからに他ならない。かかる「価値」こそ、わたしは理念だと言っているのである。*2貨幣のかかる理念としての「価値」は自明には存在しないものなのである。わたしが「価値」において言いたいことは、以上のようなことである。


というわけで、参考文献を『貨幣論』(岩井克人 筑摩書房)に指定します。明晰な文章に痺れます。

  • 「直感」について

直感」について。君は「りんご」について「匂いとかは関係ない」と書いてた。じゃあ、直感てなんですか。「勝手な理解」ということなのかな。だとすれば、なおさら、りんご「そのもの」に触れる必要はないでしょう。りんご「そのもの」に直感で触れるにはどうしたらいいんですか。「りんごはりんご」ということについては僕は異論はないよ。

だけど、「りんご」をりんごではない概念で理解するひとは居るだろうし、「りんご」として認識されている概念だって多種多様だろう。つまりは、なんらかの概念に触れるのに、方法はひとつではない、ということを言いたいわけだ僕は。よって、ある概念を説明するに当たって、説明の方法に限界はないし、伝えたい内容があるならば、絶望せずに頑張る意義も十分あると思う。相手に「勉強しろ」というのは手段として汚い。時間がないなら仕方ないけど。というか、権威主義的だと言いたいわけですよ。君自身が掲げている「相手の文脈を愛せ」に著しく矛盾していると思うよ。権威というのは、一定の「市場」にしかありえないものだからね、わかってるだろうけど。


以上のように、あなたは言うわけです。

逆に当のりんごを手にしたところで、それに触れたところで、あるいはそれを眼にしたり匂いを嗅いだところで、色や形や植物学的あるいは社会的な背景を知る以上の特権的な経験をした、と考えるのはおかしいと思う。


「直感」と君は言うけれども、それをなにか特権的なものだと考えることがおかしいのではないだろうか。


そして、そもそもあなたはこのように言っていた。これに対してわたしは「りんごという概念を理解する仕方を“りんごはりんご”と言ったのであって、当のりんごの匂いうんぬんは関係ない」と言いました。しかし、かかる概念の理解の仕方というのは、何よりも幾何学的命題のような理論的概念につき妥当するものです。三角形の概念を「三本の直線を用いて一個の図形を作ることは可能である」という命題で説明し得ても、この文言からだけでは三角形を作図できない。そこには、やはり直感の働きが必要であるということです。同様に、重力についても、りんごが木から落ちることを示して、そこに物理法則が働いていることを理解させることはできても、重力が何であるか言い当てることはできない。しかし、逆に言うと三角形の概念についてすら、「三本の直線を用いて一個の図形を作ることは可能である」と言えるし、重力においてすら、「りんごが木から落ちることを示す」ことができる。いわんや、りんごのような理論的概念ではなく自然物においては、むしろ匂いや形で理解するべきものとさえ言える。少なくともそう説明はできる。わたしはりんごを、あたかも論理記号のように扱っていたが、これは硬直的過ぎる考えだったかもしれない。少なくとも、わたしが直感の概念において依拠しているカントならこんな考えはとらないものね。ただ、「りんごはりんご」という理解にも誤りはないと思う。これ以外の理解、いや説明は可能なはずであるというあなたの主張には完全に同意します。


しかしですね、あなたが依拠していると思われる構造主義的言語観は(いや、あなたは違うようだ)、言葉を一般的なものとして捉えすぎているのではないでしょうか? 詳しくはまったく分かりませんが、構造主義が批判したと思われる、りんごに内在する性質として「りんご」という概念が先見的に存在するのだという通俗的言語観については、わたしも否定します。あなたは、以下につき同意してくれました。

  • 文脈について

Aにとっての「1」と、Cにとっての「1」は厳密には違うと考えています。加えて言えば、Bの文脈としての「4」とCの文脈としての「4」とは違う。


だから、Aが「4」を文脈として組み入れることができるかどうかは、おっしゃるとおりアクシデントを期待するしかないだろうね。これは了解できてると思う。


わたしが直感という言葉で言いたかったのは、まさしくかかる言葉の個人性でした。


あなたは上記引用の後、分有的な言葉という概念を提出します。それは、「動的なイメージ」である。

誰かが持っている文脈が、他の誰かにとっては別の現れ方をして、別の文脈としてその人固有の文脈として組み込まれていく


以上のようにあなたは言うわけです。かかる言語観自体は否定する理由はありません。ただ、それが「甘え」につながるならわたしは否定したいと思っています。もちろんこのわたしの考えを強制する理由もない。しかし、言葉の分有という言語観には、どことなく言葉の一般性を想起するものがある。当事者間における、個人的な言葉を分有するべきである。このような言い方を承認してもらえるなら、わたしは言葉の分有という概念を受け入れましょう。だが、こうした言い方すらどうも言葉の一般性を導く詐術に思えてならないのですが。

共通点があるから、対話は続いていくわけですよ


あなたはここで「共通点」が存在しなければ、対話が不可能だと言っているのでしょうか?
いや、あなたは違うのだと言うのでしょう。あなたは常に穏当な言いまわしを心がけているようですから、あくまで「“共通点”が存在しなければ、対話は続かない。続かないことがある」と言うのでしょう。しかしこの結果、相手に共通点を持てと強制することを肯定するならば(あなたは、相手の文脈を毀損してでも愛し合いたいと言う)、これは物凄く不遜な言い方だというのに気づかないのでしょうか。しかし、あなたは言葉の分有と言うのだから、共通点を持てと「強制」したいわけではない。強制せずに、個人的な言葉を分有する方法。やはりわたしは、相手の個人的な言葉をあなたのものにしろ(相手の文脈を愛せ)としか言うことはできません(もちろん、この際に暴力が介在せざるをえない)。言い添えておくとこれは決してあなたが一方的に割を食う話ではない。あなたは分かっている、詰まらないと言うでしょうが。

やはり「ここ」で止められないから、戦場で銃が火を噴くのだと考えていますよ。やっぱり、シリアスに考えるなら、「それでいいでしょう」とは思えないです。自分の利己的でその場限りの立場としては「それでいい」と思わなければやっていけないけれども、だからといって、それを理想とすることはできない。指針としても、「それでいい」と思えない場面を考えるべきだと思うよ。


「古き良き」知識人発見という感じで。しかし、戦争の抑止及び廃絶を考えるときに、重要なのはあなたが戦争に参加しないことでしょう。これもまた「古き良き」という感じで。しかし実際、あなたが相手に共通点を持てと強制するなら、これは戦争に参加するメンタリティーをあなたが培っていることになると思う。そういうことに気づいていくことが大事で、戦争を抑止するために国際治安維持軍を創設しましょうなどと言うのは違うとわたしは思う。まあ、あなたは分かっている、詰まらないと言うでしょうが。

存在しない、というだけでなくて、僕が上記のように「コミュニケーション」を理解しているから君が想像している理念的な「閉じたコミュニケーション」というのも理解できないんだよ。君はどこからその突拍子もない「閉じたコミュニケーション」というモデルを引き出してるわけ? コミュニケーションのことをよくわかってないから、勝手にでっちあげているだけとしか思えないよ。


あなたが、相手に共通点を持てと強制するならば(相手の文脈を毀損しても構わないと言うならば)、ということです。共通点がなければ成立しないコミュニケーション空間は、「閉じたコミュニケーション」だと言って差し支えないのでは? 相手の個人の自由、個人の言葉を侵害しない言葉の分有を目指してください。言葉は常に他者の言葉です。このことは、わたしも認識しています。だから、個人の言葉はこの他者性ゆえに自由になれる(すごく詩的な言い方しかできませんが、もし言葉が完全に個人に由来する個人的なもの、個人の元を離れないものだとすれば、相手の言葉を直感によっても理解することもできないし、自分の言葉を直感によって相手に伝えることもできない。言葉は他者の言葉だからこそ、言葉は個人の元から離れることができる、個人は個人の言葉から解放される)。このことを考えれば分有も不可能ではない気がします。共通点を持てと強制することは、逆に言葉の他者性を否定したものであると考えます。

  • サービスについて

「相手が価値観なり文脈なりを押し付けてきた際に、そのことを相手があなたの文脈を理解をしてくれないのだという問題へ変換するあなたの理解の仕方、態度」を君が問題にしているというのはわかった。


それがわたしの主張でした。

でもこれは本当に「変換」なんだろうか? こっちの文脈についての理解が問題にならないような「価値観の押し付け」なら僕は問題にしない(ということにしておく)。


君はそういうような問題にならない「価値観の押し付け」だけを話題にしているように思えるよ。


そうでしょうか?

僕はこっちの文脈が理解されないことを問題にしている。その通りだね。サービスでもいい、相手に自分の文脈を理解してもらうにはどうしたらいいんだろか、と。もちろんこれは抽象的に議論できるものではない。別に「相手の文脈を愛せ」でも構わないけれども、こんな安っぽいお題目は重々承知しているわけだよお互い。それをリアルに機能させるにはどうしたらいいか、と、それを僕は議論したいんだけどね。


戦争に行ってきたひとの話を聞くのは悪いことじゃないよ。だけど、「だからお前も戦場に行け」と言われたら、首をたれて話を聞くだけでは不誠実だろう。


? こうべをたれて話を聞くだけじゃ不誠実だと一方で言いながら、相手にあなたの文脈についての理解を求めるのですか? 不遜なだけなのでは? なぜ、不誠実なのかわからない。例えば戦争反対運動の署名にサインしない文学者がいたとして、それでこの文学者が非難されるなら、その非難自体がファシズム的、つまり戦争を肯定する態度でしょう。サインしない自由が文学者には認められる。話を聞くのも同じだよ。基本的にあなたには当てはまらない言葉だとは思うが、しかし教条的過ぎるのでは? 

で、サービスの話なんだけど、サービスは必要だと思う。商業的に提供されているサービスだけがサービスではないし、むしろ「サービス」は、商業によって代替されたことによって「サービスというのは商業的なものだ」と認識されることが多くなってしまい、非営利なサービスがよりいっそう手の届かないものになってると思う。


そうなの? うーん、まあ分からないでもないような…

でもそんなマスコミ的な「欲望>充足」という構図の中での、これみよがしな「サービス」ではなくて、個々人間で期待できるサービス、あるいは、サービスが期待できる人間関係というのはありえるんじゃないすか。

あるいは、そういう「サービス」を引き出せる態度というかね。もしくは、そういうサービスが期待できないんならね、その事実をどうやって受け入れられるかっていうところでしょう。僕はそういう議論をしていたつもりです。


うーむ。真面目に思うんだけど、やはり日本から、あるいは世界からなんというか宗教性が失われつつあるからなんだろうね。いや、逆なのかなあ。まあ、少なくとも我々が生きている現実には、宗教なんかないと思うからね。非営利的なサービスを期待するなら宗教に代わる何かを発見しなくてはならないだろうね。

まあ「ここんとこ気付いてください」くらいは言えるでしょう。君が批判してくる前に僕がひとりで自問していたのは、気付いてもらいたいのは自分のなんていうところなのか、ということを考えていたんだけれども。


さあ。わたしには、「甘え」にしか見えないのだが。あなたの少し複雑な成長過程を確認しても、それは、ねえ… 共感はしますよ?

でもではね、受け入れるとは何なのか?受け入れられないときはそれでいい、というならどういうときに受け入れられないのだろうか?どのようにして受け入れられないと判断した自分を信じるのか?


それが僕の問題なのよ。君は僕の問題をまったく考慮できないような「理想」をいきなり振りかざしているわけですよ。


うん。だいたい、わたしも言うことはないですよ。

「話を聞く態度」だけを問題にするのはおかしいだろう。それは対話に向ける態度ではない。君のように活発に多くの人と話しをする人間が、「話をする態度」について議論ができないなんて驚きだよ。もしかして、あんまりに考えていないからこそ、無神経に議論ができるということなのかも知れないね。


相手のサービスを求める態度は、わたしからすれば話を聞く態度なのです。話をする態度をあなたが問題にしているとは思えなかった。今は、あなたの言わんとしていることが分かる気がします。もう、これ以上言うこともないです。

で、理想と批判の問題。

どうして君は「現実を批判するために理想を示そうとして、逆に現実と同じになってしまう」という場合だけ問題にするんだろうか。


いや、「場合だけを問題」にはしていません。ただ、「個人の自由の価値」に重きを置いているのです。

現実を踏まえた上で理想を練り直すことはできるし、現実を踏まえた上でなお現実を改革できる理想はありえる。というか、現実を考慮しただけでダメになる理想なんて、それはたんに耐久年数が過ぎてるって事だよ。

君は理想を固持するに足る根拠を持っていないからなんじゃないだろうか。その程度の理想なんだとすれば、そんな理想はどうでもいいと思うよ。

現実を認識して、それでもなお、現実を変革しうるような理想があれば、そういう理想だけに意味があると僕は思うよ。理解できないかな。

つまり、理想には、現実を認識してもなお残るものと、現実に押しつぶされて消えてしまう理想がある。


前回にも書いたことです。あなたの言っている意味は理解していますよ。まったくその通りだと同意します。詳しくは、前回の記述を参照してください。


君はここの吟味をちゃんとしていないから、そんな中途半端な理想論しか提示できないのではないか。


そうですか。

でもね、「思いやってもらえない!」とただごねたいのではなくて、なんかわかってもらいたいんだけど、なにをどうわかってもらいたいのかわからない、と言ってるのよ、僕は。
そこを考えたいわけです。


わからないよ。いや、言葉にできない。

しかし、君は僕の「文脈」を暴力的に「理解」しているし、それについて改めようとしない。僕は君にそれを改めさせることに失敗し続けている。


たしかに、どこまで君が好意的に僕の文脈を理解しようとしても、そこに暴力性は介在し続けるだろう。それは仕方ないよ。


でも、その暴力性に開き直り、「より暴力的でない」理解を目指さないとしたら、逆に、僕がその「より暴力的でない」理解を期待しなかったとしたら、僕の文脈はやはり打ち棄てられたまま、つまり無視されることにならないだろうか。


僕が問題にしているのはそういう「無視」ね。


うーん。あなたと話しているとね、何というかあなたしか救えない話しかでてこないんだよ。あなたの言葉をもっと受け入れることはできるよ。おそらく同調のレベルまで。というか、今までの付き合いを考えるとわりとわたしはあなたに同調してきたような気もする。こと、個人的な言葉をやりとする個人的な話だからあなたの言葉を使って議論するのが良いのだろうけど… 

ちなみに「パフォ・コンスタ」の話だけど、君が「コンスタティブな発言だけを問題にして欲しい」なんて言うから、「コンスタティブな側面」だけを問題にする、だなんてそんなのは甘いよと。そんなのは「甘いよ」というところを強調したいわけですよ。


「コンスタティブな側面」だけが問題になるのは、それはエスタブリッシュな場面、パフォーマティブな側面の問題を、別の形式で先送りにしたり黙殺できる場だけだよ。まさに権威が必要になる。が、君に権威はない。皆無だよ。


君が「来歴」を捨象して「関数」的な考え方しかしない、いわば「構造主義的」なスタンスをとるのに対して抱く僕の違和感はこの権威主義的な問題に絡むよ。


恐ろしいことを言うねえ。しかしあなたが、話者の態度まで問題にしようとするなら、ちょっとこれ以上話を続けるのは難しいな。そもそも当初に伝えたい話の内容は伝わっているとわたしは思っているしね。

構造主義ってのは結局は(もともとがどうであるかは別にしてね)対象を静的にしか把握できない。わかってる?


現実を「エクリチュールの森」として認識するのに対して、「そんなこと言ったって、ぜんぶエクリチュールなのはわかってる」とか言ってもしょうがない。ぜんぶを「エクリチュール」という動的なものとして捉えなおせ、というのが構造主義を批判する立場なのよ。構造は指摘できる、でも指摘してもなお、指摘しきれないものが残る。この指摘しきれないものと構造との関係が、エクリチュールとフランス語で言われるものなわけじゃん、たぶん。


君が構造しか指摘できないとしたら、それはエクリチュールを構造としてしか捉えていないのではないか?聞き方の態度だけを問題にするのは、だから、発話の態度、それこそ、エクリチュールの問題を扱えていないと思う。


うん、その通りだね(笑) しかし、わたしには難しすぎるな。ちょっと勉強してみますよ。

ちなみに、ゴダールの話はいつ続くの?


や、特に言うこともないのかな? まだ待って欲しい。

*1:新古典派経済学では以下のように説明されるようである。方法論的個人主義に基づくこれらの新古典派経済学者は、消費者の主観的な選択と生産者の技術的な選択とを分析する手法としての限界原理(微分法)を駆使して、古典派やマルクスの労働価値を(生産技術の線形性の仮定と労働を唯一の希少な資源とする仮定に全面的に依存している)特殊モデルとして葬り去ることになる。…スイスのローザンヌ大学に籍をおく…ワルラス一般均衡理論は…、資本主義社会をお互いに依存関係にある数多くの市場のネットワークとして捉え、すべての市場の需要と供給を同時に均衡させる価値体系(一般均衡価格体系)の存在を数学的に証明したのである。商品社会の中のすべての商品の価値(均衡価格)は、当然すべての市場の需給関係に依存する。商品の価値とは必然的に価値体系の中の一つの価値に過ぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時にすべての商品の価値を変化させてしまうことになる。ここに価値体系の科学としての経済学が形式的な完成をみたのである。あなたが以前、「価値は相対的である」と言ったとき、念頭にあったのは以上のような考えだと思う。しかしわたしはこれに対して、価値ではなく価格と言うべきだと批判したのである。ところで、このワルラスの後継者であるパレートを通じてかかる一般均衡理論は、近隣のジュネーブ大学で一般言語学を講義していたソシュールに影響を与えたのである。こうして、一般言語学講義において言われるように言語(langue)は「純粋な価値の体系」として規定されるようになる。言葉とは関係の中においてのみ現れてくる。これによって、ソシュールは、一つの言葉は先見的に与えられた一つの概念を意味しているという、通俗的な言語観を否定しようとした(以上、『貨幣論』p.28参照)。あなたが、言語観において構造主義的−ポスト構造主義的な立場をとり、価値観において新古典派経済学的立場をとるのは真に理に適っている。わたしは、「言葉は先見的に与えられた一つの概念を意味しているという通俗的な言語観」に立つわけだ。しかし、「存在」や「欲望」のように先験的に与えられるほかない言葉というのは存在するのではないか? もちろん、りんごの内在的性質として「りんご」という言葉が与えられるのであるとは言っていない。批判されるべき「先験的」通俗的言語観とは以上のような理解を指すのである。

*2:この点、岩井は『貨幣論』第二章の『交換過程論』において、貨幣の「生成」の論理的根拠につき二つの有力な学説、すなわち貨幣商品説及び貨幣法制説が「先験的にはなんら必然を有していない(p.99)」ことを示し、ただ貨幣の存立は価値形態論で論じられた貨幣の循環論法によって根拠付けられるとする。そして続く第三章『貨幣の系譜論』においては、「貨幣が貨幣であるのは…貨幣形態Zの無限の"循環論法"の中で貨幣の位置を占めているからであるという事実を歴史的に実証(p.131)」するのである。もはや岩井が、貨幣の価値を語ることはないのである。

曰く、
『質問1:相手の文脈を愛する、とはどういうことか。

 例えば、相手に無視された場合、
 自分を無視する相手を愛し、そのまま無視を受け入れるということなのか。
 そして君はそういう意見を僕に提示してみせたんだね。』


違うよ、無視された場合じゃない。他人に価値観を押し付けられた際の話だったと、わたしは理解しているよ。他人の価値観を押し付けられたときに、いかなる態度を取るべきかということを問題にしたんです。ゴダールを全部観ろと言う相手に対して、あなたは相手があなたの文脈なり価値観を無視していると考えているのだね? わたしは、あなたのかかる態度こそ、「相手の文脈を愛してしない」と批判したいのだがね。つまり、相手が価値観なり文脈なりを押し付けてきた際に、そのことを相手があなたの文脈を理解をしてくれないのだという問題へ変換するあなたの理解の仕方、態度を問題にしていたのだよ。たしかに、仕事で忙しけりゃ、よほど酔狂でもなきゃゴダールなんか観れっこないよ。仕方ないじゃない。誰でも観れるわけじゃないでしょ、ゴダールは。つまりさ、よくライターなんかが書く文章だと思うけど、美味いものを語るためには、美味いものを知らなければならない。って言うじゃない。だけど誰でも、たとえばビンテージもののワインなんかを飲めるわけじゃないわけで。だから、ビンテージもののワインに関するルポは、ビンテージもののワインへ顕在的にしろ、潜在的にしろ興味があるひとにしかアピールしない。上手いライターになると普段興味がないし、生活水準から考えればちょっと手が届きそうにないような、そんな読み手にもビンテージワインの素晴らしさアピールする文章を書くだろうし、ビンテージワインの素晴らしさをアピールできずとも、読み物として面白い文章を書くだろう。しかし、だね。忘れてはならないのは、誰でもビンテージもののワインへアクセスすることができないのと同様にゴダールへも誰もがアクセスできるものではないと考えるのが「自然」だということ(毎日遅くまで仕事のあるひとへ、さあ今からゴダールの作品を全部観ろというのが、酷だといえば酷ですよ。ふだんの営みを完全に放棄しなければならないだろうからね)、ビンテージワインにアクセスできないひとへ書かれる「入門」を謳ったルポなりは当然書き得るし、それで簡単にはビンテージワインへアクセスできないひとにビンテージワインの価値なり、文脈なりをビンテージワインへ容易にアクセスできるひとと「共有」することはできるよ。ゴダールといえども、ワインと同じ消費財と同じなんでこうした言い方をしたけど、たとえば、ゴダールを山谷の貧困と比べてもよいよ。山谷で煮炊きしてその日暮らしをしている労働者の現実を誰もが理解するわけじゃないが、しかしその理解に向けて“文脈の共有を目指して”書いていくことはできる。だけどね、ワインは飲まなきゃわかんないし、山谷(の貧困)は行かなきゃわかんないでしょ。それは、確かなことだと思うがね。…いや違うか。難しいところだ。戦争に行った奴が、一番戦争を分かっているとは言い切れない気がするからね。うーん。戦争に関するたとえが、あなたの態度を語るのに最も適しているな。「戦争に行かなきゃ戦争のことは分からないと言うが、戦争へは容易に行けないし、出来ることなら行きたくないこの俺の立場はどうしてくれるんだ?」ってことだよね? あなたが「無視している」という言葉で語りたかったのは? この理解なら、あなたが言いたいことは分かる。ただ、わたしは一貫した態度を取って、かかる事案に関してはただ、首を垂れるということしか知りません。つまり、「戦争に行っていないわたしは確かに戦争のことを分かっているとは言いがたい、それでもそんなわたしには言えることはあるだろう」以上のような態度をとるわけです。「戦争のことを知らないひとにも戦争の文脈を共有してもらうための努力」が必要だというのは認めますが、しかしそれは「ビンテージワインを知ってもらためにはビンテージワインの文脈を共有してもらう文章」を書くのだと言うのに似て、つまり相手のサービスを前提にした態度だと感じられてなりません。要するに、マスコミのコマーシャルな情報の提示の仕方に慣れ親しんだ結果、「戦争に行かなきゃ戦争のことは分からないと言うが、行けない、行きたくないこの俺の立場はどうしてくれるんだ?」という問いが生まれる。戦争に行かなきゃ分からないとことさら言うのもマスコミだし、それで戦争を知りたいという大衆の気持ちを惹起させたところにつけ込み、そして戦争報道で儲ける(もちろん、個々のレベルでは立派な使命に駆られた記者もいるだろうし、そういうひとへは敬意を払うが、これは制度の話なのです)。けっして、戦争のことを知らなくても良い、相手のことを知らなくても良いということを言っているわけではありません。そうではなくて繰り返しますが、あなたのことは相手に「理解」してもらわなくても良いのではないかということを言っているわけです(しかもあなたの言う「毀損」であれなんであれ、いやがおうでも理解はされます)。あなたが言うだろう「相手の理解」というのは、相手のサービスであって、理解じゃないと思う。これも繰り返しになるかもしれないが、最終的に理解は直感によってしかなされない。たとえ、相手がどれだけあなたのことを尊重したとしても。


『しかし僕はそれは受け入れられない。もちろん、常に受け入れられないというよりも、こっちがせっかく相手に興味を持っているのに、そういうシーンで相手に興味を持ってもらえないとすれば、自分についてもたれているイメージを改変するか、あるいは自分についてもたれているイメージの扱いを改変してもらうか、そのどちらかしか考えられない。無視されても構わない相手に興味を持つ事だってあるので、そういう場合には君に批判されるまでもなく無視を受け入れるけれども、それは相手の文脈を愛したことにはならないだろうと思う』


だいぶ、話が逸れてきたように感じるが。相手にあなたをアピールしたいなら、あなたの努力だけが問題にされるのでは? で、あなたは頑張るにも限度があると言いたいわけだね? うーん、これは辛いね。でもさ。ゴダールは全部観られません! だけど、このまえの『アワーミュージック』についてはこんな風に思いました。っていう語り方もあるわけだからさ。良いじゃんね。


『自分が誰かに対して興味を持っているときに、相手が自分を無視している場合、相手の文脈を愛する方法は、自分が無視されていることを受け入れるということだけなのか』


「相手の文脈を愛せ」というのは、相手の発話行為があって初めて成立するものとわたしは考えてきました。わたしがずっと言ってきたようにですね、主に、相手が価値観を押し付けてきたときにいかなる態度をとるべきか。かかる問題を考える際の批判的理念だったはずです。だから、この質問には答えられません。しかし、あなたはこういうことを言うかもしれない。「相手の文脈を愛する」とは、「相手の文脈を考慮に入れて発話する」、つまり「相手の立場を尊重して話す」ことだったのではないかと。だから、念を押しておきます。「相手の文脈を考慮に入れて発話する」ような態度をもってわたしは「相手の文脈を愛せ」とは言っていません。そうではなくて、多少乱暴な言い方になるが「あなたの文脈を考慮に入れないで発話する」相手へ応対する態度として、“自分の文脈を考慮に入れてくれない”うんぬんとごねずに、相手の文脈を受け入れてみれば? と言っているわけです。ゴダール観るのしんどいって言ったらそれまでの話だよ。この理解で構わない。


『君の批判は、僕の能動的な期待や行為について向けられており、結論としては「受動的であれ」というものになっているように読める。この理解は正しいのだろうか。』


えーと、正確に言いましょう。「受動的であれ」なんて言ってないよ。発話じゃなくて、あなたが話を聞くときの態度をわたしは問題にしていたつもりだよ。


『「相手の文脈を愛する(理念・理想)ためには」という断りがまずされていることにも明らかなように、「理念(理想)を現実に即するための指針・態度」ということになります。ここは似ていますがベクトルが真逆なので注意してください。』



ベクトルが逆というがね、「現実に即した理念」が「理念に即した現実」であれば良いんだが、この「理念に即した現実」を目指すための「指針・態度」というのは、結局「理念」の域を出ないでしょ。と言っているわけですね。


『君が言うように、変なおじさん(マルクス?サンタクロースに似てるよね)が「価値」を見つけたとすれば(というふうに理解するのは危ない気がするのですが、、、)それはまず交換価値が使用価値から概念的に区別されて、交換価値など存在しないということで、市場から労働の場へ問題を移そうとしたということなのかも知れない。』


いや、マルクスは交換価値を存在しないなんて一言も言ってないよ。しかし、交換価値の謎を考えて行き着いた先が貨幣の謎であり、貨幣には積極的に言い当てるこの出来る価値なるものなんかないのだということに気づいてしまったわけだね。


マルクスがどう考えていたのか、というのは、
来歴のワンシーンにすぎないだろう。
マルクスと同時代、あるいはマルクス以前に、
そしてもちろんマルクス以降、あるいはマルクスとは関係のない文脈で、
「価値」ということばがどのように使われてきたのか。
それを考慮しなければ、
「価値」とは何かを説明することはできないんじゃないか。
すべてのシーンを余すところなく列挙せよというのではなく、
ただ、マルクス的使用法にこだわるあまりに、
マルクス的でない「価値」の理念を、とりこぼしたり、
とりこぼしていることそのものに注意を払わなくなったりしたのでは、
対話の仕方としてあまりに杜撰だと思うんですね』


いやー、杜撰ですか(笑) 面白いね〜、あなたは。まあ当然、たとえばマルクスの価値とケインズの効用は違いますよ。ケインズはあまり、価値とか言わず代わりに効用と言ったっぽい。当然、別の問題をかかる概念は問題にしているわけで。マルクスが問題にしてのは、きっとあくまで資本主義だからね。ケインズアダム・スミスは違う。彼らが分析したのは市場の仕組みでしょ。このとき、たとえば古典経済学で価値というものを自明のものとしているのは当然でしょ。まあ、わたしが使用してきた「価値」という言葉については今までの説明で了解いただけているのでは?


『あるいは、「マルクスが言った『価値』」を話題にしたいのなら、それは君がどのように「直感」(というか勝手に解釈)するに至ったのか、君が読んだマルクスと、その解釈について開陳すべきじゃないのか』


してるじゃん。


『君はまるで自分の解釈や、自分が読んだところが、誰でも勉強すれば触れることができるし、
理解できることのように書くけれども、それは本当なのだろうかと僕は疑っている』


できるよ。柄谷行人でも岩井克人でもいいんで、読めばいいんじゃない? 古典経済学の記述がある学部教養レベルの教科書でも良いし。わたしは言いたいことがだいたい書いてあるはずです。これらに書いていたことで、わたしの記述と異なる部分があれば、わたしが誤っていると思ってくれてかまわないよ。その記述の方に訂正しますよ。


『「共感」どうこうではなくて、君の「直感」の正当性について問い質しているわけですよ。』


あとは、あなが実証してください。


『ともあれ、使用する場面でも、交換する場面でも、僕は「価値」ということばが必要になると思う。そのことばが必要とされている場面があるというだけで、僕はもうそこに「価値」ということばが名指す何かがあると言っていいと思う』


うん。そうだね。だから、何度も言っているように、価値は自明に存在しないといっているわけで、空間を“批判”によって見出すことができるように、価値をある種の手続きを辿って言い当てることはできるよ。わたしは、そうしたことを前回までの記述でさんざんやって来たはずですが? 


『日常的な使われ方を指してそれを「通俗的誤解だ」と言うのは容易い。中学生でも出来る。ではより正確な理解とはなにか。それを提示できなければ、なんにもならないんじゃないかと思うのよ』


したでしょー。今までのを読んでよー、あれで駄目だったら本読んでー


『そして、こと貨幣が議論されるとき、使用価値と交換価値は区別が曖昧になる。曖昧と言うよりも、互いに入れ子構造になっているのではないかと思うんですね』


意味わかんないです。


『僕の言う「文脈」は、例えば、
Aという人の文脈として、指摘することのできる文脈1,2,3があったとします。
この「1,2,3」を指して、「Aの文脈」ということができます。
また、Bというひとの文脈として、指摘することのできる文脈4,5,6もあるでしょう。
この場合、「Bの文脈」は文脈「4,5,6」となります。
AにもBにも付き合いのある別の人Cを考えた場合、
Cの文脈として「1,4,7」というのを考えることはもちろんできますね?
この場合「Cの文脈」は「1,4,7」です。

このCの前に、Cとは関係のない(文脈を共有しない)Dという人が現れたとしましょう。
彼の文脈を仮に「α、β、γ」とします。

ここで注意して欲しいのは、
「文脈」というのは
指摘し尽くすことができるものではないという点です。
先に挙げたA/B/C/Dの4者について
指摘することができる文脈をいくつか挙げたわけですが、
例えばAとBとのあいだに指摘できた文脈に共通するものはありませんが、
ここで絶望する必要はないという程度のことです。
それこそ、「Cと知り合いである」という要素を文脈として考えることで、
AとBとは文脈を共有しうる、と言えるだろうということです。

文脈、ということばを、
特定の宗派やことさら事件性のあるイベントの経験、
に限定する必要は僕は理解できません。

さて、で、CとDです。
いっけんしたところ文脈に共通点のない二人ですが、
たとえば二人に言語的な共通点はありえないでしょうか?
外見に相似するところはないでしょうか?
生物的な共通点もないでしょうか?
それらの共通の「要素」が即「文脈」になり得ると言うわけではありません。

いわば「要素」の持続が「文脈」になると僕は考えています。

たとえばAとCは「1」と呼びうる文脈について共有していますが、
その文脈についてはそれぞれの他の文脈から別々の触れ方、
別々の理解の仕方をせざるを得ない。
ここで反発が起きるだろうし、逆にその反発の和解の可能性もある。

僕が「文脈の毀損」というとき、
この「反発」があり、おそらく「和解」も含みます。
文脈というのは、僕の理解では、毀損されても滅んだりはしない。
与えられている要素を組み替えて持続していくものだと思います。

AとBであれば、たとえばCについて文脈を共有しているわけで、
この点で反発が起きるかもしれないし、なんらかの和解の可能性もある。
「和解」を好意的に了解できないときには
それを「毀損」と呼ぶこともできると思います。
(「毀損」を「和解」と呼ぶのはたぶん不適切なので、別の表現を考えたいところです)

かくして、
Aの文脈は「1,2,3、C」となり、Bの文脈は「C,4,5,6」となるでしょう。
(文脈も、言うまでもなく、このようにして入れ子構造を繰り返して持続していくので、
 つねに変動しているわけですが)

僕の理解している「文脈」、あるいは「文脈の毀損」というのはこういうことです。
(Q4への回答。Q3はどれだった?)』


いや、なかなかユニークな哲学かと。あなたのコミュニーケンションの理解はだいたい分かりました。しかし「かくして、Aの文脈は『1,2,3,C』となり、Bの文脈は『C,4,5,6』」
とは? わたしの理解だと、A「1,2,3,4,7」B「1,4,5,6,7」ということだけど、いいよね? A「1,2,3」につき、C「1,4,7」の1を共有していたから、Cを介して、B「4,5,6」固有の「4」を文脈に組み込むことができたのだと。これが、“理解”であると。いいよね? しかし、たとえ1を共有していたって、4がAの文脈に組み入れられるか否かは、まったくのアクシデントに他ならないのではないかとわたしは言っているわけです。AはCと1を共有していても、4は共有していない、要するにAの文脈にはないものなのだから、やはりある意味“暴力的に”AはCの4を受け入れることでしか、4を己の文脈に組み込むことはできないのであると言っているわけです。この点をどう考えますか? 第三者を介したコミュニケーションモデルも二項のコミュニケーションモデルと同じ。あまり、意味を感じません。


『要するに、僕の現実を知り、僕の態度や指針を知り、それでもなお、君が違和感を覚えるのであれば、代替案を提示して欲しいと主張しているわけだ僕は』


いや、わたしは批判の意味内容をあなたに伝わったなら、それで満足。これまでのほとんどの言葉は、この作業に費やされている言うことはできる。あとは、個人の責任において判断すればいい。


『ところで君が提示したモデル「閉じたコミュニケーション」というのは、僕の現実に即していただろうか?』


と思ってるけどね。


『それからQ2について。今回読み直して思ったのだけれど、「現実を追認」することの何がまずいんだろうか。』


前にも書いたでしょ。現実を批判するために理想を示そうとして、逆に現実と同じなってしまったら「批判」の意味がないでしょう。「理想」の意味がないでしょう。批判するのは、それが理想に照らし合わせて“悪い”からですよ。


『現実は現実として認識する必要がある。現実を正当に認識できない人間の理想は説得力を著しく欠くだろう。僕は強調したい。現実は認識されるべきである、と。少なくとも現実の変革を望むのであれば。現実を認識した上で、理想を語り、現実を変革していくこと。理想を語り、現実を考慮した指針や態度をもって、現実を変革していくこと。これが重要なんじゃないだろうか。』


うん。この話自体は正当だよ。


『君が「現実の追認に過ぎなくなる」ことを恐れているのは、「現実の追認」を恐れているのではなくて、それによって「理想の追求」を放置すること、こっちなんじゃないか』


いや、あくまで批判の視座という意味においてしか理想は意味を持たない。


『しかしここには「指針」「態度」の吟味が忘れられている。
ちょっと議題がずれているけれど、
これでQ2-1への返答とします。』


? わかりません?



『「ゴダールなら○○を観よう」とか
ゴダールなら何観てもいいんじゃない?」とか
今回の『アワーミュージック』はとにかく短かったこと、
最新作であること、
内容的にもことさらゴダール作品としても驚異的にとっつきやすいこと、
劇場ならではの音響的体験があり、それがまた非常に貴重であること、
とまあこういう話をしてくれるんならわかるし、
そういう話を僕は期待していたわけです。
(それだけではないけれど、とりあえず)』


だから、それは商業用パンフレットとかの文章。サービスだよ。


『それを「甘い」というのはわかる。
また相手にそういったことを期待するのは筋違いだというの正当だろう。
君の話がそういった指摘に留まるなら、この話はこれでおしまいです。』


そう、甘い。これでおしまいですね。


『君がもしそういった指摘を超えて、
たとえばゴダールは「文脈を飛び越える問題」を扱っている作家であり、
またそういった作家のなかでもとりわけ重要であり、
また忙しいとか疲れるとかいった世俗的問題と、
芸術や社会の問題とを寄り合わせた問題を提示してくる作家なのだから、
あるいはとりわけ『アワーミュージック』はそういった問題にことさら取り組んでいるのだから、
そういったことを議論したいという方向へ話が動いていくなら、
僕はそれはとても面白いと思う。』


まあ、わたしはこれ以上理論的な進展は望めないんでパス。十分です。


『君は「相手の文脈を毀損することは、
相手の文脈を愛することの反対だ」と言う。
果たしてそうなのだろうか。
君はまた「相手の文脈から排除されるという不利益」と言っている。
それは実は「不利益」ではないよね。
こっちの期待が叶わなかっただけで。
したがって、ここでの問題は、期待が叶わない場合の問題になる。
これは僕の現実であり、君が知らない僕の理想の問題なのかも知れない。』


「そう」だと言っています。


『僕にとっての問題、
すなわち現実と理想とが乖離していて
指針や態度の吟味が必要とされる問題は、
「こっちが組み込んでもらいたい文脈に
組み入れてもらえない状態」を前にどうしたらいいか、
ということです。』


うん。


『これについては君は端的に「それでいい」と答えるでしょう。
僕は相手の文脈を毀損してでも「愛し合いたい!」ということになる。
まあ、だいぶ単純化していますが。』


やー、あなたが言っているのは、相手から手を差し伸べて貰いたいということなんじゃ? 「相手の文脈を毀損してでも」ってのは、“相手にあなたの立場を理解させてでも”って言葉に変換できるよね? なんというかちょっと乱暴な言い方をすると(怒らないでね。分かりやすいたとえと思ったから)、マグロですよね。マグロ。俺はマグロでいるから、お前が動け! みたいな。まあ、男らしいと言うか、女らしいと言うか。


『というのは、君は「自分が組み込んでもらいたい文脈に自分が排除されるとき、それはそれでいい」と言うが、僕にとっては「果たして本当に自分は排除されているのか」とか「本当に自分は相手の文脈に組み込まれたいのか?」とかいう問題がなお残っているわけです。』


うん。たぶん、だれもあなたを排除していないと思う。たんに、あなたの立場を思いやれないだけでして。これは、「文脈から排除されている」とは違うでしょ。


『自問に対する批判として、
いままでの君の批判は性急に過ぎたのではないだろうか?』


あ、それは認めます。


『君は単に一般論として
「無視されたっていいじゃないか」と言い、
僕は一般論として「無視」を語るのではなく、
今回はnosさんに自分が無視されていることを問題にしていて、
続いて君が僕を無視していることを問題にしている。

「無視」という問題についての「暴力」こそが
議論されるべきだと思うね。
愛の対義語は暴力ではなく、
無視なんじゃないかと思うんだけどね。
無視を伴う暴力が問題なんじゃないかと思うんだが。

ただ理想を提示するだけで指針や態度を論じないのは、
問題にするべき暴力だと考えます。
現実に即さない指針を盲目的に提示するだけもまた然り。』


そかー。無視の暴力ねえ。まあ、ナイーブな問題だね。ここを重点的に語りますか? しかし、今回確認したいのは、あなたは無視なんかされていないということ。無視されていると考えるのは、あなたが「サービス」に慣れすぎているからじゃないか。


『(略しますが)「パフォ/コンスタ」というのは、
ある表現行為を分析する際に相対的に指摘しうる概念であって、
コンスタティブな相のない態度も、
パフォーマティブな相のない態度もありえないんじゃないかと。』


いや、そりゃそうだ。


『さて、
説明を求められたので答えるけれども、
たとえば「りんご」について説明する場合、
「丸くて、赤くて、果物で、青森の特産品で」
と説明を続けて、りんごを知らない人に
りんごについて説明することが出来るか、という問題。

これは僕はたとえば
上記の説明で十分な場合もありえると思います。
「なるほど、りんごってそういうものなのね」と了解すればそれでいい。
それをもって「りんごについて知った」と言えるでしょう。』


まあ、立場の違いですが。しかし、先述のCの4をAが受けいれるときも、リンゴはリンゴ式の理解における直感性が問題になっていたのでした。


『逆に当のりんごを手にしたところで、
それに触れたところで、
あるいはそれを眼にしたり匂いを嗅いだところで、
色や形や植物学的あるいは社会的な背景を知る以上の特権的な経験をした、
と考えるのはおかしいと思う。

「直感」と君は言うけれども、
それをなにか特権的なものだと考えることが
おかしいのではないだろうか。』


おかしくないでしょ。というか、りんごという概念を理解する仕方を「りんごはりんご」と言ったんであって、当のりんごの匂いうんぬんは関係ない。

『「関数」を語るときに、
その「来歴」を捨象するのは、片手落ちなのではないか、
と言いたいのです』


問題にならないと前に書きました。


キャシャーンについては、
キャシャーンの魅力について語るときに
「映画」というジャンルの意義を持ち出す必要はないと思います僕も。

ただし、キャシャーンの至らなさを語るときに
映画というジャンルに鑑みて貶めるのが不当であると言いたいのね。

わかるかな』


あ、これはわかります。同意。

長い長い返事

Q.1 わたしの批判の仕方が誤っているとあなたは批判したい。それ(わたしの批判の仕方が誤っていること、わたしの批判が誤っていることをあなたが批判したいということ)をわたしは理解しているか?

Ans. 理解しているつもりです。あなたは、おそらく二つの意味で、わたしの批判を的外れだと言っている。①わたしはあなたの現実から乖離した理念で、あなたの現実を批判をしている。かかる理念による批判は実践的ではない。あなたは、だからより実践的な理念で批判を行うべきだと考えている。たとえば、平和を語るならば同時に国連のような平和を達成する手段を考えるべきだということですね。このような意味であなたはわたしを批判していると思う。あなたの批判は一般論としては完全に正当です、受け入れましょう。前回から認めていたことです。ただし、『閉じたコミュニケーション』という言葉に集約される、わたしが提出したあなたの現実、それが局面であれ批判を行いたい現実を抽出したモデルは正しかったという考えをわたしはいまだに捨て切れません。現実を局面だけ捉えても、意味がない、意味がないとは言わないまでも弊害があると、あなたは批判するでしょう。特に、批判を行う目的が、現実の変革にあるとき、現実を局面だけ批判しても変革を成し遂げることができないならば、現実を局面だけ捉えて批判するのは目的に外れるので意味がないとあなたは言うのでしょう。そして、現にわたしがあなたの現実を局面だけ捉えて批判しても、そのことによってあなたの現実は変らなかったのだから、わたしの批判は的外れだったのだということになるのでしょう。いや、あなたの「現実」という言い方より、「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない、これは、あなたの現実ですか? それとも理念ですか? 」というわたしの質問に、あなたは「現実」でも「理念」(ここで言われている「理念」という言葉と「理想」という言葉は同じと考えて差し支えないように思う)でもなくて、「態度」「指針」だと言っているので、「態度」「指針」と言い換えた方が良いのかもしれません。ところで、わたしが「指針」と言ったとき、「指針」とは強制を伴わない行動規範というほどに使っています。暴力を伴わない法規範。しかし、法規範をたとえば行政指導という穏便な言い方に変えても、結局は権力の暴力を前提にしたものなのだから、暴力を伴わない法規範を考えることは不可能だし、要するに「指針」と言ったところで、強制力、暴力を伴った規範、理想だと言うべきだったのだろう。理想に不可欠に伴う暴力の問題に関しては、批判②で言うことになるので、今は置こう。むしろ、ここで言うべきはあなたが「指針」「態度」と言ったのは、あなたの理想だったのではないかということだ。どうだろうか? Q.1 わたしは、「あなたの現実」という言葉でそのことを言っていたように思う。確かに、あなたは一方で、わたしの理想でもある「相手の文脈を愛せ」という言葉には同意をしてくれた。だが、わたしはかかる理想につき、『自分が相手の文脈から排除されても、なお「相手の文脈を愛せ」』と言い、あなたは「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」と言う。あなたはこう言うだろう。「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」というのは、わたしの言っているような現実から乖離した理想ではなく、なるべく現実に即した理想なのだと。いや、現実的な「態度」であって、そもそも「理想」ではないと言うだろう。どうだろうか? Q.1-2 しかし「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」につき、「やむを得ない」という表現で、あたかも現実的な「態度」を語っているように思えても、それは結局、あなたが将来に採り得る態度の予測のようなものであって、やはり、せいぜい現実に即した理想と表現されるべきものなのだとわたしは思う。繰り返すが、「指針」という穏当な表現も、結局は暴力を伴わざるをえない理想なのだと思う。わたしの言う理想に対して、あなたが現実的な態度を問題にするとき、あなたはわたしと同様に理想を語っているのだということに同意するだろうか? Q.1-3(Q1~Q.1-3まで、すべて同じことを質問しています。まとめて答えてくれてかまいません) もし同意するなら、次のことが言える。あなたも前回までに同意してくれたように、批判にはある視座が必要になる。わたしは、その視座を理想と名付けた。あなたは、批判にある視座が必要となることまでは同意するが、その視座が現実から乖離した理想のようなものであれば、否定したいと思うだろう。どうだろうか? Q.2 しかし、わたしが繰り返し述べてきたのは、あなたの求める現実に即した批判の視座、現実に即した理想というのは、現実の追認に過ぎなくなるのではないかという懸念だった。これに対して、あなたはわたしに現実の追認になり得なくて、かつ現実に即した批判の視座、現実に即した理想を提出することを要求している。その理由は、そもそも批判が現実の変革を目的としたものならば、現実から乖離した視座、理想で現実を批判しても、現実の変革が成功するわけではないからだ。ここまでの確認に問題はないだろうか? Q.2-2 わたしが、「相手の文脈を愛せ」と言い、「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せと言った理想は、ある批判の視座だ。その批判の目的は、「あなたの現実」の変革にある。わたしは、先に次のように書いた。『わたしは、「あなたの現実」という言葉でそのこと(「指針」「態度」とは、あなたの理想なのではないかということ)を言っていたように思う』だからわたしは、あなたにこう言いたい。わたしは、かかる理想によって、あなたの理想を批判していたのだ。あなたの理想が「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」というものに帰結するなら、わたしはその理想に対して、「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せ」と批判すると言っている。だが、帰結という言葉は強すぎるかもしれない。少なくとも、あなたは「相手の現実を愛せ」を現実に実行したときに、相手の文脈を毀損することがあるのだという事実を述べているのだと言っているのだろう。それは理解できるが、しかしそれは、事実を述べているに過ぎないのであって、そのこと自体、保持すべき「態度」「指針」、すなわち「理想」ではないと考えている。「かかる“態度”“指針”を保持せざるをえない」と言うなら、それもわからない。なぜなら、“態度”“指針”は保持せざるをえないようなものではないからだ。態度は、指針は、理想は変革し得るのである。ただし、「態度」「指針」を仕方なくとってしまうということはある。しかしそのことを、その事実を、「態度」「指針」として掲げよう、「理念」として保持しようというのならば、わたしはその「理念」を批判する。あなたが、「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」というとき、あなたは事実を正当化しているように思える。わたしは、このことを「現実の追認」と言っていたのです。しかし、まだあなたはわからないかもしれない。そこで、次のような例で考えてみてほしい。アメリカは銃社会だと聞く。一方には、銃規制・銃廃止の立場があると思うが、一方で銃を所持する権利を失いたくないと考えるひとびとの立場がある。銃を所持する権利を失いたくないと主張する立場のひとたちは、開拓時代からの自主防衛の精神から、かかる立場を主張していると思う。銃を規制、廃止するのはかまわない、だが誰が俺たちを守ってくれるのか? と彼らは主張するのではないか。銃が蔓延しているこの社会の現実は変らない。だったら、銃で護身するよりほかないではないかと言うのではないか。もっともな言い分である。では、アメリカ社会から銃を撤廃させるためには、どうすれば良いか。方策はただ一つだと思う。すなわち、政府の権力による暴力を後ろ盾にした、銃の規制および撤廃である。実際、日本は銃をそのようにして「法」規制している。銃撤廃という理念は、銃保持という“理念”に対して、強制力によってのみ実現されるのである。銃の保持は現実である以上に、理念なのである。つまり、「誰が俺たちを守ってくれるのか?」という現実的な問いかけの背後には自主防衛の精神があるということである。自主防衛の精神、この理念自体に善も悪もない。善、悪は最終的に現実に照らし合わせて判断するしかない。すなわち、自主防衛の精神を尊重して銃の所持を認めた結果、銃による犯罪が後を絶たない現実をどうするかという問いである(銃の保持を認める立場は、銃と犯罪は関係ないと主張するだろう。しかし、銃という手段によって多くの犯罪が達成されるのは事実である)。かかる判断、問いに対しては結局、恣意的な判断しかなしえない。もちろん、銃による犯罪のケースの統計等細かくデータを出すことは可能だろう。それでも、「銃と犯罪は関係ない」とは言い得るのである(おそらく、あなたはわたしがここで言っている細かくデータを出す作業を導くような態度をわたしに求めるだろう)。そのデータを基に相手の立場へ説得を試みるわけだ。しかし、かかる民主的プロセスでは、銃の規制は容易に達成し得ないのではないか。繰り返すが、銃の所持を主張する立場の背後には、自主防衛の精神、理念が存在するのである。理念には、理念で対峙するほかないと私は思う(たとえば、銃の規制につき、治安維持という実践的手段と伴にパケージで説得を試みても、当の権力の暴力からの自己防衛が問題にされてしまう)。そこで、銃の規制を求める立場に立ってわたしはこう言おう。なぜ、自主防衛の精神が必要とされるのか。それは自己の生命財産を守る際の心構えとして必要とされるのである。しかし、あなたの生命を何らかの攻撃手段によって守るならば、その当の守る手段によって相手の生命が危険にさらされるということを考えるべきである。あなたの生命と相手の生命のどちらが尊いと誰に判断ができるだろうか。あなたは、あなたの生命を守るために相手の生命を危険にさらすべきではないのだ。このように言うことで、初めて自主防衛の精神、理念を語る相手に対して説得ができるのである。しかし、“実際の現実では”、つまり近代法の常識では、正当防衛は認められる。なぜか。それは、相手の生命よりも自分の生命が尊いからではなくて、自分の生命が危険にさらされたときに相手の生命を危険にさらすことも「やむをえない」と考えられているからである。この限りで、違法性が阻却されるのである(簡単な話だよね。たぶん、教科書レベルでは通説のはず)。つまり、自分の生命が危険にさらされているときに、相手の生命を守ることまでは「期待できない」。この「期待できない」ということを、正当防衛という例外として特別に規定し、相手の法益を侵害する殺人も傷害も認めましょうというわけです。これが、あなたの考える現実に即した理想に近いのではないか? Q.3 しかし、わたしとしては、違法性が阻却されるというよりも責任が阻却されるのだと考えたい。何が違うのか。違法性が阻却されると言ってしまえば、正当防衛は法理念として認められてしまう。すなわち、自分の生命が危険にさらされた際は、相手の生命を危険にさらすことも「やむをえない」ということが、法理念として認められてしまうということです。これは、理想として特例といえども殺人、傷害を認めるということになる。しかし、相手の生命と自分の生命のどちらが尊いか誰にも判断などできないのだという理想(これは、近代法の理想でもあると思います)に特例を設けるべきではない。理想は理想として固持すべきだと考えるから(じゃなくては、なしくずしに理想が現実に接近していってしまう、現実の追認になってしまうと危惧するわけですね)、そこで法理念からは正当防衛を認めることはできないが、個人には責任がないと言い方で、正当防衛を認めていく(責任阻却説、これも有力な考え方です。もちろん、この考えにも多分違法性阻却説からの再批判があって、それはだいたい次のようなものになるのではないか。すなわち、特例を理念することで、なしくずしに理念が現実に接近してしまうというが、逆に責任阻却説をとれば、むやみに個人の責任の名のもと特例が認められてしまい、結局理想を形骸してしまうのではないか。だからこそ、逆に理想の特例を法規範として確立すべきなのだ。以上の批判は正当だと思います。しかし、わたしは理想を理想として固持することに意味を感じる。というのも、法規範は、理想は強制力を伴うものなので、なるべくならない方が良いからです。もちろん、この考えにも批判は考えられる。個人の責任のもと特例を認めることは、逆にとりわけ相手の自由をむやみに侵害することになりはしないかというものです。わたしは、これに対して自由は個人的なものであり、理想、というか規範によって維持されるべきものではないと答えます。理想、規範によって維持される自由は、自由ではない。これも、わたしの理想、わたしは自由という価値を信奉しています。今まで、私が述べてきた理想と矛盾しないと思います)。わたしが、理想と現実との関係で言いたいのはそういうことです。「現実の追認」を懸念していたのは、要するに理想は理想として固持すべきであり、むやみに現実を理念、理想に繰り込むべきではないと言っているのです。だいぶ、話が迂遠になってしまいました。言い残し、とりこぼしはあると思いますが、ここまでをまとめて、かつ補足してみましょう。理想によって維持ざれる自由は自由ではない。むやみに現実を理想に織り込むのではなく、なるべく理想は固持されるべき(現実に照らし合わせた理想の修正を、むやみに理想に反映させるべきではない)。というのも、理想は個人の自由を侵害する強制力を伴うので、なるべくない方が良いからである。あなたの理想は「相手の文脈を愛せ」この理想の特例、現実を織り込んだ理想が「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」。わたしは、かかるあなたの理想を以下の二点において批判します。一つは、あなたが「むやみに」理想に現実を織り込んでいる、つまり現実と照らし合わせて修正された理想を語ることで現実を追認してしまっている点。わたしは、「相手の文脈を毀損するのもやむをえない」という“現実的な態度”を理想に織り込むのは、「相手の文脈を愛せ」の理想の反対を語ることになるので、到底両立し得ないと考えています。二つは、理想に現実を織り込んだことで、つまり現実と照らし合わせて修正された理想を語ることで、個人の自由、特に相手方の自由を侵害することになる点。実際、あなたは理想に現実を織り込んだ結果として「相手の文脈を毀損することもやむをえない」というわけです。私の理想は、「相手の文脈を愛せ」であり、たとえ「自分が相手の文脈から排除される」という現実の不利益をこうむることがあるとしても「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せ」、すなわち「相手の文脈を愛せ」の理想は揺るがない。現実の不利益に対しては、「自由にやればいい」すなわち、その時々の個人の責任で判断すべきである。こんな感じでしょうか。なお繰り返しますが、わたしは「自分が相手の文脈から排除され」たときこそ、「相手の文脈を愛せ」という理想を貫くべきだと言っているのですね。あなたの個別のケース、すなわち今回ならば「ゴダール全部観なきゃ駄目」というケースにつき、わたしはかかる理想を貫いてもかまわないのではないかと言っているわけです。しかし、以上の話で明らかなようにかかる理想を貫くか否か、最終的な判断はあなた個人の責任に委ねられています。この点で、じゃあ結局「あなたの現実」を変革しえないではないかという誹りは逃れ得ないものと思っています(わたしが「つまらない」と言われる理由です)。しかし、このことは次の批判②で言うことに関わってきます。さて、あなたがわたしに行っていると考えられる批判②です。おそらく、あなたは次のように言っています。わたしは「相手の文脈を愛せ」と言うが、その言葉をわたし自体は守っているのか? つまり、理想を押し付けることは当の理想に反することになるのではないか? この批判も一般論としては完全に正当です。わたしが「相手の文脈を愛せ」と言うとき、わたしは何よりもまず身をもってそのことをあなたに示さなくてはならない。「自分が相手の文脈から排除されても、なお相手の文脈を愛せ」と言うならば、当の主張が受け入れられなくても、まず相手の言い分を聞かなくてはならない。つまりこの場合は、あなたの言う「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」という「現実の認識」(わたしにとって、それはあなたの理想にすぎないのですが、あなたが「態度」「指針」と言うとき、結局言いたいことは「現実の認識」というほどの意味なのだと推察します。今気づきましたがわたしは、その認識にもイデオロギーがあると批判していたのかもしれません)に立って、わたしは話を進めていかなくてはならない。このことに異論はありません。ただ、わたしとしては、おそらくあなたの言うように理想は共有すべきものであるが(このこともまた理想です)同時に強制力を伴って押し付けられるのが理想だとも考えています。要するに、理想、この広い意味で理念というのは直感として受け入れることができるか否かにかかっているのではないか。理想や理念について言葉を費やすことはいくらでもできるが、pはpであるほかないという言い方からも明らかなように、現実に存在しない理想、理念は直感によってしか判ずることができないと思っています。だから、たとえば、「人殺しはいけない」という規範を語る殺人罪の規定は、直感にしか理解しえないので、なぜ「人殺しはいけないのか?」という疑問がしばしば語られる。かかる、規範すなわち理想、理念を了解するには別の理想、理念を持ち出さざるをえないのではないか。たとえば、あなたの生命が保証されているのは、殺人罪によって生命という法益が保護されているからであって、その法益をあなたが殺人を犯すことで侵害することは、あなたの生命の保証を損なうことになる。もし、あなたがあなたの手で殺人を行うのだとすれば、あなたはあなたの手であなたの命を殺めるのに等しい。こういう言い方を、例えばする。しかし、結局これは理念、理想の話ではないことは瞭然である。つまり、直感とは受動的な働きと言えるかもしれないがそれ以上に“暴力的な作用”でしか
ないのではないか。別におかしな哲学(電波 涙)を言いたいわけではない。直感が“暴力的な作用”だということは、たとえば殺人罪の規定を万人に納得させるために刑罰が科せられていることを考えれば良いように思う。刑罰で脅されて、初めて「人殺しはいけない」と納得してしまうのである。人殺しは別に良いのだが、刑罰が嫌だから人殺しをしないのだという抑止力が普通刑罰には語られるが、実は刑罰の脅しが人に「人殺しはいけない」のだという理念、理想を納得させているのではないか。むろん、刑罰のほかにも道徳のような社会規範を考えても良い。そのような社会規範が存在することで、当の規範を了解するのはなぜなのかと問うているのだ。pはpであるという理解のほか、pについてはできないし、だとすればpが迫ってくるそのありさまは暴力的と言っても良いのではないか。と、ここまで長々書いてしまったが、要するに理想に暴力はつきものであり、相手に理想を了解させるには一方的に押し付けるやり方をとる必要があると言いたいわけです。だが、もちろん言葉を費やすことはできる。もっといえば、民主的なプロセスを経て、理想について「共感」することはできるかもしれない。あなたが望んでいるのは、そういうことだというのはよくわかる。しかし、わたしとしてはこれ以上どうすれば良いのかわからない。「相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない」という理想を受け入れることはできない。わたしは、その理想を批判するために今まで述べてきた理想を言うだけです。言葉を費やすことはできますよ。相手の文脈を毀損することを良しとすれば、「相手の文脈を愛する」という理想をあなたは破棄してしまうことになる…ちょっと待て。相手の文脈を愛するために、相手の文脈を毀損するのがやむをえないって何? 何となく分かっていた気になっていたが。どうやら文脈の意味を取り違えているようだ、我々は。わたしは、文脈を相手の文化的、思想的背景、要するに相手の価値感というほどの簡単な意味で使っているが、あなたはもう少し開かれた意味で使っているのだね? よくは知らないが、クリステヴァなんかが言ったという間−テクスト性みたいな? や、知らないけど。わたしは、おそらく文脈という言葉をcontextの狭義の意味で使っている(つまり、単一のモデル間の背後に複数の参照先を想定している。わかりづらね、まあ通俗的な意味ですよ)。あなたは、どういう意味で文脈という言葉を使用しているのか? Q.4 

Q.2 「打ち合う」こと、ことさらわたしから「パンチを繰り出すこと」、いわば「批判をすること」についてはどう考えているのか。
Ans. 繰り返しになりますが、理想を視座にした批判において暴力は不可欠だと考えます。つまり、一方的に理想は押し付けざるをえない。しかし、限界はあるにしても理想について共感の道を探ることは可能だと思う。が、それは今やっていることだと思っている。つまり、言葉を費やしている。で、あなたの文脈を愛することは可能だが、この点、あなたの文脈を批判することを目指しているので、今回はあなたの文脈をそのまま受け入れることはできません(しかし、たとえばゴダールを全部観ろというなら観ます)。

Q.3 そこについて何も語らずに「それで良い」と言って、自分が批判されると、さっそく逃げ出そうとする、それはどうなのか。
Ans. 別に逃げ出してはいませんよ。立場が違うのです。詳しくは、Q.1の「自由」に触れて
いる箇所で述べていることになるかな。

Q.4 「自分もまた批判を行っている」という現実を認識しないつもりなのでしょうか?他人に
対しては理想を主張し、自分がその理想に該当しないと指摘されると逃げ出すのでしょう
か。
Ans. わりとこれはクリティカルな問いなんですね。繰り返しますが理想に不可欠な暴力という問題は、結局まだわたしはよくわかっていない。ただ、暴力を排除するためには権力の暴力に頼らざるをえないということはある。当の権力の暴力をどうするかは、難しい問題です。まあ、ちょっとピンとこない話かもしれないんで、もう少し話に即して再度答えますと、自分もまた批判を行っているという現実はよく認識しています。他人に対しては理想を主張し、自分がその理想に該当しないと指摘されると逃げ出すのはどうか? というあなたの問いには、だからあなたの理想は受け入れることはできない、わたしはその理想を批判するために理想を言っているのだという言い方になります。おそらく、あなたはわたしの“パフォーマティブな態度”を問題にしているのだろうが、“コンスタティブな”文言だけを問題にして欲しい。いや、これは難しい問題ですよ。とりあえず、わたしは古典的な態度を維持して、コンスタティブな文言だけを言うしかない。というか、十分にパフォーマティブな態度でも「相手の文脈を愛せ」を実践していると思うけどね〜(あなたの理想を受け入れるか否かは別の問題でしょう)

Q.5 君は理想だけを語って実効的な手段を語っていない。その意味で重要な点を疎かにしている。実効的な手段のために理想を吟味しなおす意義を、「現実の追認」を恐れるあまり、
唐突に「追認にすぎないものにしてしまうなら」という限定のもと、語られないままにしてしまっていることに気付いていますか? またそのことは認めますか?
Ans. まあ、Q.1に書いたことだけど。実効的な手段のために理想を吟味しなおすことは、現実を理想に織り込んでしまうことになり、そのことで①現実の追認になる②個人の自由を侵害する以上の点から、わたしはなるべくやりたくない。こと、「相手の文脈を愛せ」に関しては、理想は維持されるべきだと考えてます。理由は、Q.1に詳しく述べられています。

Q.6 「現実の追認にすぎないものにしてしまうなら」ではなく、「どうしたら現実の追認ではない、批判的な理念を維持できるか」と議論を展開すべきではなかったのでしょうか?
Ans. これは、理想および権力の暴力の問題に関連して難しい問題だと思うよ。それこそ、デリダとかが中期以降に言うのは、こうした問題なんじゃない? この際、逃げていると言われてもかまわないけど、ちょっとわたしにはわからないな。自分の頭で考えることは、今はできないと思う。わたしは、古典的な態度を当面維持します(しかしむしろ、あなたに何か考えがあるなら聞いてみたいものです。本当に)。



Q.7 「自分の文脈もまた、他人の文脈に連なっている」というのは、自分の文脈は、対話中のその相手の文脈と一見異なっていようと、別の他人の文脈に連なっていることには違いない、ということを指しています。それでもわかりませんか?(Q3)
Ans. ここで、文脈の説明がなされているわけで。えーと、よくわかりません。というか、それで相手の文脈を愛することが、相手の文脈を毀損することになるというメカニズムがわかりません。説明してください。 Q.5

Q.8 理想のために自らの文脈を棄てるとしたら、(違っていたら指摘してください Q4)君は「文脈」というものを、僕と違った形で認識しているのかも知れない。僕からすれば誤った認識をしているように見える。文脈は棄てることはできないのではないか。
Ans. わたしは、だから結局「文脈」という言葉を「価値」という言葉と同じに使っていたようです。あなた言ったように価値は人間に複数備わっているのだから、一つの価値を捨てても死にはしない。あなたの言う文脈とは何でしょう?


Q.9 君が自分の指針で苦労してこなかったというのは、既に流通済みの「相手の文脈を愛せ」という不可能めいた理想を、自分に都合よく勝手に解釈し(つまり「相手の文脈を愛せ」という言葉の文脈を愛さずに)逃げたくなったら逃げる、という、直感的な「それで良い」を利用してきたからではないか。

Ans. それはそうかも。言わばQ.1で書いた「責任阻却説」の難があるところです。あなたの批判を、この点認めましょう。

Q.10 「貨幣はまったく価値を代替しえない」と主張するのでしょうか?これは僕は
現実から乖離した理解だという意味で批判します。
Ans. うーん。別に、貨幣が価値形態の表現物だと言ってもかまわないんです。貨幣は価
値を代替すると言ってもらってもかまわないですよ。だけど、代替する価値なんかそもそもない、だから「貨幣はまったく価値を代替しえない」とわたしは主張しましょう。現実から乖離した理解だというが、この場合の「現実」とは? まさか、「価値」なるものが現実に存在すると言うわけではないのでしょう? ここのところを、よく考えてください。教科書には、貨幣が価値形態の表現物だと書いてあっても、そんな「価値」はない。というよりも、自明には価値があるなんて言えない、市場や政府があるから価値があるんだとか、そういう理解はちがうと言っています。「価値」は、今までの私たちの議論を参照すれば明らかなように(明らかじゃないとあなたは言うのだろうね)、「理想」のことだと言い換えてもらってかまいません。見ようとしてみなければ、みつけることができないもの、それが価値です。別に現象学的還元といっても言いし、「批判」と言っても良いが、とにかく価値は想像上の産物であるということは忘れないでください。貨幣を何かの代替物だというなら、まだ商品の代替物だと考える方が自然です(もちろん、そんな風に考えても駄目。むしろ、貨幣は貨幣の代替物でしかないとわたしは考えています)。


Q.11 「人口に膾炙している表現はそれなり尊重すべき」についてを検討したいと思います。   
君は「理解はできないでもないが、意味がない」と言っていますが、要するに「理解できない」ということでしょう。違いますか?(Q6)言い換えるならば「それなり」ということの「意味」が理解されていないと思います。
Ans. 理解していますよ。それは、次の質問に言われることでしょ。

Q.12僕は特殊な表現が不要だとは言っていない。しかし、特殊な表現が、「わかりやすい」表現に結び付かないなら、そこに批判が向けられる必要があると言っているわけです。わかりませんか?(Q7)
Ans. ううむ。だからねー、これは難しいことを言っているのだよ。本当は。あなたは、おそらく「理想」を共有化する努力をわたしが怠ろうとしていると批判するだろうね。「意味がない」と言ったのは、別に「理想」を共有化する努力を怠ることを正当化しているわけではないんだよ。理想、いや理念を理念として語るのに際して、意味がないと言ったのだね。しかし、こう言ってもわかんないだろうね。まああれだ,論理哲学論考のような文章を考えてもらえるとわかりやすいよ。あの哲学はあの文章でしか実現されなかったと思わないかい? 別に、わたしは大哲学者と自分を比べているわけではなくてですね(それにわりと彼は平易な表現を使うしね。論理記号は勉強しなきゃわかんないけど)、理念を語るのに際して用いられる「特殊な表現」には意味があって(あなたもそれは認めるでしょう)、
その「意味」さえ達成できれば人口に膾炙していない表現を使用することも厭うことはないということです。理念を語るに際して大切なことは、結局のところ体系の無矛盾性だろうからね。これが、「意味」です。で、わたしの話に大した体系なんかはないんだが、たとえば「貨幣は価値を代替する」と言われると、たとえそれが人口に膾炙している表現でも認められないということになるわけです。繰り返しになりますが、わたしにとって価値は想像上のものであり、「貨幣は価値を代替する」という表現に、価値をあたかも現実に存在しているものとして扱わんとする考えを汲み取ってしまうことも可能なので、わたしはかかる表現を認められないと言っているわけですね。

Q.13 関数的、という表現には「来歴」という歴史的でかつ現実的な見方が欠けているように思えます。違いますか?(Q8)
Ans. 欠けてます。すごい勢いで。「来歴をともに辿ることで、わかりやすい表現で、両方を接
続することができるだろう」というあなたの考えには賛同してもかまいませんよ、そうして理想の共同化を図ろうとしているわけですね。しかし理念、概念には何でも「来歴」が存在し、その「来歴」を辿ることで理念、概念に関して真の理解を得られるという考えを持っているなら、それは捨てた方が良いと思う。関数的という表現は、あの場所では正当だ考えています。

Q.14 概念にもまた「来歴」があるので、そこを参照することで、「わかりやすく」表現するこ
とが可能だと考えています。
Ans. しかし、これは誤解なんじゃないかなあ。なぜ、可能かと思うの説明してください。り
んごは、丸くて、赤くて、果物で、青森県産で…なんて言っても当のりんごを知らなき
ゃわかんないでしょ? りんごはりんご。直感でしかわからない、いえない。

Q.15 理念的な「価値」の来歴は何か?
Ans. いや、だから価値は理念的なんだから、「理念的な」ということがおかしい。まあ、良い
ですよ。あくまで、わたしの理解を語りますよ。そりゃやっぱり、どうして金持ちが生ま
れるんだってところから価値は出てきたんじゃないか? いや、つまりさ、A.商品と商品の交換(商品=商品)、B.商品×貨幣(工場で労働者が車を作る。その材料代金、労働者のお弁当代とか)=商品×貨幣(工場主が車を売って儲ける代金)A.においては、ことさら価値なんて考える必要はなかったんだよ。牛一頭と鶏四羽が等価に交換されているときには、牛一頭は鶏四羽分の価値があるなんて考え方はしない。だって、場合によっては牛一頭と鶏五羽で交換されたこともあろうし、逆に三羽と交換することもあるだろう。これはね、牛一頭には本来価値をつけることができないからなんだと(牛さんの使用価値を全面的に否定しているわけではないよ、ここが難しいところかな。つまり、牛さんが頑張って鋤をひいてくれるとか、お乳をだしてくれるとか、ばらされてお肉になっちゃうとかそんな優しい牛さんの効用自体を否定はしていない。しかし、牛さんを交換するときに明らかになるのが、牛さんの交換価値の謎ということ。この謎をわたしは「価値はない」と言っているわけですね。間違った理解を植えつけることになるかもしれないが、あえてこう言わせてください。「牛さん、お乳ありがとう」という気持ちがあって、初めて使用価値が成立するように、交換価値も「何かがあって」、あるいは「何かが起きて」初めて存在するものらしいということを念頭に置いておいて欲しい)。これをさ、貨幣経済のアナロジーで捉えて、鶏一羽につき鶏インフレなるものが起こって、牛一頭につき鶏百羽になるとか考えるのは愚かでしょ。だから、A.の場合物価の変動も起こらない(起こるという言い方もあるように思う。これが普通の古典経済学なのかな?)。ところが、B.になるとさあ大変。物価は変動する、インフレは起こる、しまいにはなんだか金持ちと貧乏人の開きが大きくなってきやがった。これには、どうやら貨幣って野郎が一役買っていやがりそうだが、いまいちその秘密がわかんねえ。B.において、左辺と右辺は等価のはずなのに、どこに余剰資本が生まれやがったのかと。この余剰資本が貨幣になりやがるというとこまでは見当がついてるんだ(重商主義で金を蓄えたとこらから貨幣経済はスタートする)。で、ロンドンの図書館で変わったおじさんがひらめいちゃったのが、ちょっとこじつけ気味ではありますが、B.の左辺においては、労働者の血と汗と涙が加わっているから、その血と汗と涙分右辺に生息する工場主等資本家が儲かる、余剰資本が生まれるんだと。それを価値と名付けましょうと(交換価値、労働価値)もちろん、今でも価値が労働価値だなんて主張する気はないんだけど、とにかくこれで価値が自明のものではないと私が繰り返し言っていることを理解してもらえただろうか。これが、わたしの言う「価値」の直截な来歴だよ。そしてわたしは前回に「貨幣が流通していることが、言わば貨幣の価値を決している」と言ったわけです。あなたが言い換えた「貨幣が流通していることが貨幣に価値を与えている」という言い方でも問題ありません。拙い表現を謝ります。「その限りで貨幣は価値を代替しうる。ではどうして貨幣が流通しているのか?どうして貨幣が価値を代替しうるのか?繰り返しになりますが、市場があり、政治があるからです」というのは、まあそう言いたかったらそう言えばよいだけです(わたしが、「貨幣は価値を代替しない」と言うことで言いたいことがあるとすれば、現実に存在する何か価値なるものがあって貨幣がその価値なるものを代替しているわけでは断じてないということだけですから)。ただし、あなたの言った『市場も政治も流動的なので、「決定」ではなく常に「暫定」』というのは何ですか? 貨幣の価値が変動するということを言っているのでしょうか? まあ、言いたいことは分からないではないですが、変動するのは「価格」と言っておいた方が意味が正確な気がします。たしかに、貨幣は市場や政府から信用を与えられて価値を得ていると言って良い。詳しくは分からないが政府の信用が下がったから、貨幣の価格が下がったと言いえる自体はあると思う。このとき、貨幣の価値が下がったと言っても良いが、価格という言葉の方が直截だと思う。価格が下がったのは、信用が下がったことで、貨幣の価値が下がったからだという言い方のときにおいて初めて「価値」という言葉の意味があると考えます。念を押しておくと、価値は現実には存在しない、貨幣と価値を混同してはならない(イコールじゃないし、別に表裏一体とかそういうものでもない)、価値と価格は違うということです。

Q.16 「あれは映画ではない」といえば、それは単に、キャシャーンの持つ価値を否認していることになりませんか。
Ans. なりますね。認めます。この限りで、つまりキャシャーンに備わっている最低限の「映画?」としての価値を保障するために「映画以上、映画以外の映画」という言い方をすることにまあ反対しません。しかし、ですね、何も映画というジャンルの価値によってキャシャーンの価値を保障しなくても良いのにね。と思うのです。

…『アワーミュージック』については、またあとで。

現実は引き裂かれた煉獄である

簡単に天国を出現させる方法(映画から遠く離れて 第一回 笑)−『アワー ミュージック』の場合


初めに、小説ジャンルにおける『焦点化』『焦点人物』の概念を提出したい。映画ジャンルの理論は、不勉強なので。しかし、これからする話には妥当すると思う。『視点』という概念には、曖昧なものが含まれている。一般に『視点』とは“point of view”、語り手の立っている位置のことであるという理解がなされていると思う。しかし、“語っている人”と“眺めている人”の位置は、必ずしも一致するものではない。語り手は、別の人が見たことを語る場合もあるのである。そこで、ジュネットらナラティヴィストは、誰が語っているのかという問題と誰が眺めているのかという問題を『焦点化』『焦点人物』の概念を導入することで区別した。すなわち、『焦点化』という概念で“眺める”という行為を規定した。ここで言われている“眺める”とは、語ることにほかならない。そして、『焦点人物』という概念で“眺めている主体”を規定したのである。次に問題になるのが、『焦点人物』のいる位置である。すなわち、『外的焦点化』と『内的焦点化』の区別が問題になる。『外的焦点化』とは、焦点人物が物語の外側に位置する場合を指し、『内的焦点化』とは、『焦点人物』が物語の内側に位置する場合を指す。以上の理解は、主に『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』に負うことを明らかにしておく。


『アワー ミュージック』において、天国はいかに簡単に出現し得たのか。このことを記述するのが本文の趣旨である。① 天国前夜 映画物語内で、男(ゴダール)が既知である若い女性(オルガ)が死んだらしいということを電話で聞かされるシークエンス。中東のとある映画館で自爆したニュースが届いたらしい。とはいえこれはあくまで、噂の域を出ない話。ただ、男はその話を聞かされるだけなのである。しかし、我々観客は、天国前夜、煉獄が明ける前に若い女性が「世界の和解のため」に死ぬだろうという予感を十分抱かされてもいる。この天国前夜のシークエンスでは、ゴダールに内的焦点化が起こり、またゴダールという焦点人物と焦点化のレベルは一致しているのである。ともあれ、はたして若い女性は死んだのか。そのことは、次の天国篇で明らかになるだろう。② 天国 映画物語内で、死んだはずの若い女性が平然と画面に姿を現す。彼女は森の中を疾走する。煉獄でも疾走していた。だからあたかも、天国は煉獄と地続きのようである。いや、彼女が死んだのがただの噂に過ぎないならば、ここは煉獄そのものなのではないか。天国を存在させることはできないのか。世界は和解しえないのか。しかし、我々観客は物語のナレーションの不自然な声を聞く。この声がどこから響いてくるのか。映像のレベルでは、若い女性が焦点人物である。つまり、内的焦点化がとられている。しかし、焦点化、すなわち“語り”のレベルではどうか。映像の焦点化(“眺める”)レベル(映像の“語り”のレベル)と、ナレーションの焦点化(語り)を分けて考えたい。映像の焦点化においては、若い女性が眺めていると言っていい。この点で、焦点人物と焦点化のレベルは一致していると考えよう。だが、ナレーションのレベルでは不自然な声がどこから響いてくるものか判然としない。あるいは、若い女性の内言かもしれない。だが、それは我々観客に若い女性の内言としては響かず、物語外から聞こえてくるように響きはしないか。そうであるならば、すでに天国においては若い女性のイメージはスクリーンに光の束として映じられているのみで、すでに彼女は物語内から消えた、すなわち死んだものとみなされるべきだろう。③ 現実 では、物語外から響くこの声は何か。言うまでもなく、彼女は物語外に位置するカメラ、いや我々観客のレベルから語りかけている。ちょうど、キアロスタミが『オリーブの林をぬけて』のラストで、映画が現実と地続きであることを証明してみせたようにである。ヒッピーと兵士が共存する牧歌的な共同体の光景に我々観客が目を奪われているこの瞬間、天国というのは彼女と同じ位置で映画に見入っている我々観客がいるこの場所に出現したのである。


映画は許されるのか?(映画から遠く離れて 第二回 笑)−やっぱり『アワー ミュージック』の場合


映画は繰り返し殺戮のイメージを利用してきた。地獄篇の十分間は、映像の快楽と共にこのことをよく教えてくれるものである。映画芸術と言っても娯楽であり、消費財に過ぎないということは、ホークスについての闘争的な批評で知られたゴダールなら熟知しているはずだ。ゴダールは、商業ベースで長いこと映画作家を続けているのである。娯楽、消費財がどこかで戦争を糧にせざるをえないというのは直感では、我々誰しもが了解するところだと思う。そして、こと映画においては、このことを事実として目の当たりにせざるをえない。たとえば『プラトーン』から戦争批判のテーマを読み取ったところで、いやおうなく当の戦闘シーンに魅了されてしまうのである。だから、映画を観ることは作ることと同じくらい戦争を糧にしている事態に加担すること、引いては戦争を肯定することでさえある。ある種のミリタリー・マニアの心情を考えるのがわかりやすいかもしれない(もちろん、すべてのミリタリー・マニアが戦争を肯定するのだとは言っていない)。映画作家ゴダールの悩みを我々は共有している。すなわち、映画を作ること/観ることは、戦争に加担することなのではないか。誰しもが、みないようにしてきた、みないようにしたい事実、現実があえてゴダールによって提起されているのである。果たして、映画は許されるのか。ゴダールは煉獄篇で二つのイメージのことを言う。すなわち、イメージには相反する二つのイメージが存在する。これは、映画のアナロジーであり、同時に現実のアナロジーでさえある。イスラエルパレスチナは同じ土地に存在すべき国家だった。しかし、帝国列強の国際政治の犠牲になったという歴史は同じである。同様に、映画の歴史は同じだが戦争批判の映画の歴史が戦争に加担した映画の歴史でもあった。二つのイメージは、もちろん物語内でも語られる。ネイティブアメリカンパレスチナの詩人の画面の登場は、すべての歴史にはもう一つの歴史が語られることを示している。しかも、ネイティブアメリカンが物語内における現実の表象なのか、はたまた想像上の表象なのかも判然としないありさまである。映画監督を志す若い女性(オリガ)と映画監督であるゴダールもまた、「二つのイメージ」という言葉に集約されるものだろう。天国篇において、煉獄篇で姿を消した若い女性が現実=天国のレベルからスクリーンに投影された自身のイメージに声を投げかけるとき(ここでも、声とスクリーンのイメージの「二つ」である)、同様に煉獄篇で姿を消すことになった映画作家ゴダールは、カメラという一個の眼になって、いや映写機そのものになって我々観客に死んだはずの若い女性がヒッピーと兵士の共同体を駆け抜けるという天国/終末的なイメージを投げかける。はたして、映画は、我々は許されたのだろうか。現実の観客席で出現した天国は、また地獄かもしれない。だから、安直に許されたと思うのは差し控えることにしよう。我々のいるこの現実というのは地獄と天国の狭間、引き裂かれる煉獄である。『アワー ミュージック』が稀有な作品だとすれば、映画の天国性と地獄性を映像と音楽でことさら際立たせて(地獄だけでは、地獄は『プラトーン』のように快楽の天国に堕してしまう)、その当の構造、引き裂かれる煉獄を浮き彫りにしようとしたところかもしれない。

長い返事 part.2

「相手の文脈を愛せ」がわたしの主張でした。
Q.1 なぜ、今回わたしが上記の主張をあなたにしたのか?
Ans. かかる主張に表明されている理念によって、あなたの現実を批判したかった。
あわせてその理念が、あなたに「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われた際の行動規範を提供することができると考えたから。 

Q.2 わたしは、当該理念につきあなたが理解していないと思っていたのか?
Ans. その通りです。

Q.3 なぜ、Q.2のようにわたしは思ったのか?
Ans. 「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われて不快感を抱いたと書いたから。Q.4の解答でもあります。

Q.5 あなたが「その理念に従うためにどうしたらいいかを考えたかった」のだということを、わたしは気づいていたか? また、そのことを認めるか?
Ans. 直接話した際に気づきました。今は認めています。しかし、「僕としては、君の主張と同様の「相手の文脈を愛したい」という理想はあります。だからこそ、自分が相手の文脈から排除されて否定的に語られたとき不満を抱くわけです」とあなたは言います。「だからこそ」以下が理解できません。当該理念を現実に即したものにしようとすると、かかる不満を否定するわけにはいかないということでしょか? だとすれば、わたしはその不満を抱いてしまうあなたの現実をこそ批判するために、当該理念を主張しているので、わたしの主張としては転倒した言い方になってしまいます。「相手の文脈を愛したい」という理想を掲げるならば、自分が相手の文脈から排除されても、なお「相手の文脈を愛せ」ということです。もちろん、あくまでも理想です。現実の行動規範としてすべて採用するわけにはいかないかもしれない。しかし、指針にはなる。あなたとしては、指針は分かっているが、しかし不満を抱いてしまう現実をどうすればよいのかを考えているのだという言い方になるのでしょう。わたしは、指針を言うだけです。あなたの現実までは如何ともしがたい。ただ、理想を示してあなたの現実を批判したのです。あなたは、よりあなたの現実に即した理念を求めると言うでしょう。しかし、今これ以上わたしが言うことはないと思います。

Q.6 人口に膾炙している表現はそれなり尊重すべきだという考えを、わたしはわかっているのか?
Ans. うーん。理解はできないでもないが、意味を感じない。とりあえず、特殊な言葉を使っていてもひとに伝わらないということがあるというのは当り前にわかる。が、それでも一般の語の使用法にとらわれることなく、特殊な使用法で語を用いなくてはならないときはある。言うまでもなく理念を語るときです。
Q.7 わたしは「理念」と「現実」を分けて考えているか?
Ans. 分けて考えています。同時にそれらは「地続きなのだ」というのも理解できる。しかし、それは次の意味においてです。たとえば、カントが空間と言うとき、一般に我々が認識・使用する意味での空間ではなく、理念としての空間を言う。空間は実体的なものではない。我々が一般に認識する空間は、物(の現象)にすぎない。この意味で、空間は現実ではない。しかし、物(の現象)を認識するためには、空間と名指されるフレームワーク、すなわち理念が必要とされる。物(の現象)を認識するメカニズムを解明するためには、空間という理念を考える必要がある。空間は現実に存在しないが、現実を認識するためには空間という理念が必要とされる。この意味で、「理念」は「現実」と地続きである。同様に、「現実」を批判するために必要とされる「理念」も、「現実」と地続きである。あなたが、「わかりやすい表現が必要」と言うとき、こと理念を語る際にはたとえば「空間」を物(の現象)の意味で使用してしまうような誤謬が存在してしまうので、注意する必要があるとわたしは考えています。

Q.8 Q.8は、少し意味が不鮮明です。わたしの理解では、理念を現実とどう結びつけるか考えるのに、小説以外の手段があるのではないか? ということになります。
Ans. この線で話を進めると、わたしが「小説を書くしかない」と言ったとき、それは現実を現実の素材で考えるならば小説しかないということです。現実を理念で考えることはできない。理念は理念しか考えることができないと思っています。しかし、それが現実への批判になるとわたしは言っているのです。ところで、現実を現実の素材で考えるのに、まさか小説しかないということはないんであって(小説も小説しか考えることができないと思っています)、「小説以外の手段でもそれは可能だ」というのには同意します。

Q.9 わたしが「オタク的コミュニケーション」を現実には存在しない閉じたコミュニケーションのモデルとして提示したことで、「閉じたコミュニケーション」という在り得ない現実を認識してしまったのではないか? 
Ans. あくまで、現実を理念で批判する際に「在り得ない」「閉じたコミュニケーション」という概念をことさら持ち出したのです。繰り返し言っていることです。しかも、「閉じたコミュニケーション」は在り得ないというが、あなたらしい言い方で言えば相対的に閉じたコミュニケーションのモデルとして言っている。「君がそう思うのはもっともだ。理由がある。しかし現実は違う」とあなたは言うが,わたしは「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われた際にあなたが不満を表明した、その現実につき十分に妥当するモデルだったと思っています。しかし、あなたは妥当しないと言うのでしょう。そのあなたに、あなたの現実はこうなんだとこれ以上の言葉を費やして説得はできないように思います。


Q.10 Q.10の意味は不明瞭です。再度、説明をお願いします。しかし、Q.10以下に続いた文章の内容はわかります。同意します。


Q.11 「○○自体」というのは、有り得ない。ということをわたしはわかっているか?
Ans. 残念ながらわかりません。物自体が存在しているかどうか言い当てることができない。空間や時間という概念、平和という概念は、現実には存在していない。ということは言えます。「言葉は隣接するほかの言葉から考える必要もある」というのは、厳密には言えないのではないかということを指摘しておきます。記号pはpでしかないということです。(対象)記号は、トートロジーでしか言い表すことができない。トートロジーはナンセンス(無意味)と似ているが、違います。ただし、関数的に表現することは可能です。たとえば、りんごは赤くて、丸くて、果物で…という具合に。「考える必要もある」というのは、このやり方を指しているのでしょうか。しかし、一般言語を用いる限り、このやり方は厳密ではない。厳密には、りんごはりんごです。りんご自体です。


Q.12 (質問文省略)価格と価値は違うものとして、言い換えているのです。そのように書いているはずです。 


Q.13 (質問文省略)
Ans. わかりません。「貨幣がある程度代替しうるもの(価値)」という理解が誤りです。そうではないということを、書いたはずです。それは通俗的理解です。特に、現在では金本位制が廃止されたことで、なおさら貨幣が価値を代替してはいないということが理解されるはずです。貨幣が流通していることが、言わば貨幣の価値を決しているのです。あなたは、「価値を貨幣が代替したときの暫定的な数値で、測定するのは貨幣ではなくて市場のなんらかの機構」という言葉で、わたしの言う「貨幣が流通していることが、言わば貨幣の価値を決している」という内容を言っているのかもしれませんが、よくわかりません。わたしの今まで書いてきた文章でわからなければ、少し自分で勉強してみてください。

Q.14 (質問略)
Ans. 「貨幣の価格も市場によって左右され」ることと、「貨幣によって物の値が決まってしまう」という言い方は矛盾しません。そして、「物の値すら決して決まることはない」と言い方とも矛盾しません。わたしは、物価の決定についていったのであって、物価が変動しないなどとは言っていないつもりです。くわしくは知りませんが、マネタリストと呼ばれる学派のひとたちも似た言い方をするんじゃないか。

Q.15 (質問略)不変の理想は不必要というのは正しい。しかし、現実を批判する際にはある視座が必要であり、わたしはその視座を理想と名付けているということです。「で? だからどうしたの?」というのは、現実から乖離したモデルを抽出して批判することには意味がないということですね。わたしは、今でも正当な批判を行ったと思っています。なるべく現実に近いモデルを抽出して批判するに越したことはありませんが、なるべく現実に近いモデルだったと思いますし、違うというならそれまでのことです。Ans.5に書いたことです。

Q.16 (質問略)理想と併せて実効的な手段を語ることは、重要です。共産主義の理想と共産革命の手段、その後の共産社会のありようを論じることで、初めて共産主義の理想に説得力が備わるということでしょう。もはや、完全に柄谷(神さま)と同じことを語り、同じ問題に直面しているわたしですが、周知の通り柄谷はNAMをやりました。周知と言ってもよくフォローはしていないのですが、たとえば、統治機構としての権力を考えるとき、統治者をくじ引きで決めたらどうかと言ったわけです。権力くじ引き論。こんな、ある意味馬鹿なことしか言わなかった。それでも、柄谷の言う理念は現実の批判として有効だとわたしは思う。本人もそう言っている(笑) 実践から理念を修正することは正しい。しかし、そのことが理念を現実の追認にすぎないものにしてしまうなら、否定しよう。これが、わたしの態度です。あなたが言う、あなたの現実を追認する気はない。『「相手の文脈を愛する」ために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない』これは、あなたの現実ですか? それとも理念ですか? 『相手の文脈を愛せとは、相手の欲望を咀嚼し我が物にしろ/あなたの欲望を相手に咀嚼させ相手の物としろということですから。このことを階級闘争に置き換えると、あなたの階級的利益を相手に押し付けるか、相手の階級的利益を受け入れるかということです』このわたしの理想と開きがある。言わば、ノーガードで打ち合うのが理想だと言っているのです。もちろん、現実にはガードするし、逃げることもある。「それで良い」と言っているわけです。「自分の文脈もまた愛さなくてはならない。なぜならば、自分の文脈もまた、どのように都合よく解釈していたとしても、他人の文脈に連なるものだからです」という言い方は賛同できません。「相手の文脈を愛せ」の理想からかけ離れている。繰り返しますが、「相手の文脈を愛したい」という理想を掲げるならば、自分が相手の文脈から排除されても、なお「相手の文脈を愛せ」ということです。

Q.17 あなたのどこがナイーブだったのか?
Ans. Q.1に併せて言うと、『「相手の文脈を愛する」ために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない』や「自分の文脈もまた愛さなくてはならない。なぜならば、自分の文脈もまた、どのように都合よく解釈していたとしても、他人の文脈に連なるものだからです」という言い方で、自分の文脈の保持をなお問題にする点です。なぜ、そこまで自分の文脈の保持を問題にするのかがわからない。平和を問題するなら、同時に国防も問題しなくてはならないということでしょうか? しかし、「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われることが、たとえばあなたという個体の生死を左右するわけじゃないでしょう。言わばあなたの一部分は、死ぬかもしれない。しかし、あなたの言うように人間の価値観は多様なのだから、あなたのすべての価値観が否定されるわけではない。あなたは、ある部分の相手の価値観を受け入れることで、あなたが更新される経験を得ることになる。別に、大した弊害はないのでは? あなたは、「大した」弊害があると考えているようですが。この点を、ナイーブだと言っているのです。「他人の文脈に連なるものだから」とは何でしょうか。ここがあなたの考えの肝なのかもしれないが、不明瞭です。大切なところのようなので説明、お願いします。


Q.18 わたしが、「相手の文脈を愛せ」という話をことさらあなたに向けるのがわからない。なぜか?
Ans. 確かに余計なお世話かもしれない。特に、あなたの現実に即した理念をわたしが語らないのならば。そして、わたしはこれ以上、あなたの現実に即した理念を語るつもりはあまりない。現実の追認になってしまうと恐れる。しかしいかにあなたが、わたしの言う理念を現実から乖離していると言っても、あなたの現実の批判になる点であなたの役に立つはずだとわたしは信じていた。今は、少し怪しい。特に、あなたが当該理念を了解済みだと言うので。しかし、Ans.16に書かれている懸念がある限り、あなたはかかる理念を了解していないと思う。だから、ことさら「相手の文脈を愛せ」と言ったし、言うのです。



Q.19 抑圧してくる人間に「言えることを言え」式の方法以外にいかなる方法があるか、またどう「言えることを言う」のかという問題を、わたしも抱えているか?
Ans. あなたとのやりとりで出てきた問題です。しかし、わたしはあまり悩まない。「言えることを言う」し、やり方はその場の直感に従う。これでさして、苦労はしてこなかった。抑圧する人間と出会っていない、あるいは逃げてきたからかもしれませんが、わたしには判断つきかねます。

Q.20 「様々な素材があって、絵画や小説という群れを作っている」あたりの文章について。
Ans. 「価値判定の原理も、常に現実の素材を鑑みて更新すべき」という考えには賛成です。「もちろん、ひとつの原理があるなんて言ってはいません」とわたしが書いたのは、あなたがそうした批判を行うと思ったからです。ただ、「キャシャーン」と「フォード」を同じ映画ジャンルで括るのは不当だと考えています。前回、書いたように二つの素材はあまりに異なっているように思えるからです。むしろ、「キャシャーン」の素材はアニメや特撮のそれと近しいようにわたしには思えました。「いまは何が映画としてより確定されているっぽいのか、それはどこで確定されているっぽいのか、その素材、その素材に注視しているのは誰なのか」とあなたが言うとき、映画ジャンルを現在の大衆にそう名指されるだけで、映画ジャンルと呼ぶべきだと言っているように思うのですがそうでしょうか? だとすれば、それはあまりに杜撰なジャンル論のように思えます。受け手を問題にする“狭義メディア論”とジャンル論を一緒にはできないと思います。「素材の問題はメディア論」というのは正しいと思います。だから、こと私小説に関しては、私小説私小説として受け止める需要層が問題にされる。私小説私小説として受け止めた需要層が、私小説に特有の文体を作り上げたのです。たぶん、あなたは「キャシャーン」「フォード」についても同じことを言おうとしている気がするのですが、しかし私小説論を19世紀のヨーロッパの本格小説と同じ言説で語るのがある面では完全に不適切なように、「フォード」について言い得る映画ジャンルという定義を、「キャシャーン」についてあてはめる必要はないのではないでしょうか? 「キャシャーン」には、違う名称が相応しいのでは? ということを、わたしは言いたかったのです。たぶん、小説ジャンルの中に、私小説を含んで良いと考えるなら、映画ジャンルの中に「キャシャーン」を含めても良いように思う。あるいは、私小説本格小説の双方に妥当する統一理論として小説のジャンル論を構築できるかもしれないように、「フォード」「キャシャーン」を含めた映画の統一理論を打ち立てることができるかもしれないし、そのことに意味があるということでしょうか? それは、必ず大きな仕事にならざるをえないでしょう。

昨日 21時頃

quixana2005-05-17

高田馬場から新宿に向う山手線車内で 昇降口と座席の間にある狭いがあの居心地の良い間隔に 背広を着た勤め人が 直に床へ尻をつき膝を抱えてうずくまっていたのだった 頭を剃りあげているのだが うっすらとわずかな毛が生えてきていて それがなにかの模様に見える そういえば 昔 ソビエトの指導者にゴルバチョフという指導者がいたなと思い出しながら その模様を眺めていたのだけれど 列車が新大久保を通過しても その勤め人は身体を落ち着かせようと もぞもぞするばかりで いっこうに立ち上がる気配がない 次の新宿では彼がうずくまっている方の扉が開くことになり 乗降客が大勢いるので あぶないなと思った それで 実際 私が新宿のプラットフォームで降りるとき 肩をたたいて「あぶないですよ」と声をかけてさしあげた 振り返ると 駅のプラットフォームの雑踏にたたずむ姿を見つけて安心した 幡ヶ谷に向う途中 京王新線の車内で あの昇降口付近の狭い間隔をみつけて なんとなく そこにいつくようにうずくまっていた人の気持ちがわかる気がした