長い返事 part.2

「相手の文脈を愛せ」がわたしの主張でした。
Q.1 なぜ、今回わたしが上記の主張をあなたにしたのか?
Ans. かかる主張に表明されている理念によって、あなたの現実を批判したかった。
あわせてその理念が、あなたに「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われた際の行動規範を提供することができると考えたから。 

Q.2 わたしは、当該理念につきあなたが理解していないと思っていたのか?
Ans. その通りです。

Q.3 なぜ、Q.2のようにわたしは思ったのか?
Ans. 「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われて不快感を抱いたと書いたから。Q.4の解答でもあります。

Q.5 あなたが「その理念に従うためにどうしたらいいかを考えたかった」のだということを、わたしは気づいていたか? また、そのことを認めるか?
Ans. 直接話した際に気づきました。今は認めています。しかし、「僕としては、君の主張と同様の「相手の文脈を愛したい」という理想はあります。だからこそ、自分が相手の文脈から排除されて否定的に語られたとき不満を抱くわけです」とあなたは言います。「だからこそ」以下が理解できません。当該理念を現実に即したものにしようとすると、かかる不満を否定するわけにはいかないということでしょか? だとすれば、わたしはその不満を抱いてしまうあなたの現実をこそ批判するために、当該理念を主張しているので、わたしの主張としては転倒した言い方になってしまいます。「相手の文脈を愛したい」という理想を掲げるならば、自分が相手の文脈から排除されても、なお「相手の文脈を愛せ」ということです。もちろん、あくまでも理想です。現実の行動規範としてすべて採用するわけにはいかないかもしれない。しかし、指針にはなる。あなたとしては、指針は分かっているが、しかし不満を抱いてしまう現実をどうすればよいのかを考えているのだという言い方になるのでしょう。わたしは、指針を言うだけです。あなたの現実までは如何ともしがたい。ただ、理想を示してあなたの現実を批判したのです。あなたは、よりあなたの現実に即した理念を求めると言うでしょう。しかし、今これ以上わたしが言うことはないと思います。

Q.6 人口に膾炙している表現はそれなり尊重すべきだという考えを、わたしはわかっているのか?
Ans. うーん。理解はできないでもないが、意味を感じない。とりあえず、特殊な言葉を使っていてもひとに伝わらないということがあるというのは当り前にわかる。が、それでも一般の語の使用法にとらわれることなく、特殊な使用法で語を用いなくてはならないときはある。言うまでもなく理念を語るときです。
Q.7 わたしは「理念」と「現実」を分けて考えているか?
Ans. 分けて考えています。同時にそれらは「地続きなのだ」というのも理解できる。しかし、それは次の意味においてです。たとえば、カントが空間と言うとき、一般に我々が認識・使用する意味での空間ではなく、理念としての空間を言う。空間は実体的なものではない。我々が一般に認識する空間は、物(の現象)にすぎない。この意味で、空間は現実ではない。しかし、物(の現象)を認識するためには、空間と名指されるフレームワーク、すなわち理念が必要とされる。物(の現象)を認識するメカニズムを解明するためには、空間という理念を考える必要がある。空間は現実に存在しないが、現実を認識するためには空間という理念が必要とされる。この意味で、「理念」は「現実」と地続きである。同様に、「現実」を批判するために必要とされる「理念」も、「現実」と地続きである。あなたが、「わかりやすい表現が必要」と言うとき、こと理念を語る際にはたとえば「空間」を物(の現象)の意味で使用してしまうような誤謬が存在してしまうので、注意する必要があるとわたしは考えています。

Q.8 Q.8は、少し意味が不鮮明です。わたしの理解では、理念を現実とどう結びつけるか考えるのに、小説以外の手段があるのではないか? ということになります。
Ans. この線で話を進めると、わたしが「小説を書くしかない」と言ったとき、それは現実を現実の素材で考えるならば小説しかないということです。現実を理念で考えることはできない。理念は理念しか考えることができないと思っています。しかし、それが現実への批判になるとわたしは言っているのです。ところで、現実を現実の素材で考えるのに、まさか小説しかないということはないんであって(小説も小説しか考えることができないと思っています)、「小説以外の手段でもそれは可能だ」というのには同意します。

Q.9 わたしが「オタク的コミュニケーション」を現実には存在しない閉じたコミュニケーションのモデルとして提示したことで、「閉じたコミュニケーション」という在り得ない現実を認識してしまったのではないか? 
Ans. あくまで、現実を理念で批判する際に「在り得ない」「閉じたコミュニケーション」という概念をことさら持ち出したのです。繰り返し言っていることです。しかも、「閉じたコミュニケーション」は在り得ないというが、あなたらしい言い方で言えば相対的に閉じたコミュニケーションのモデルとして言っている。「君がそう思うのはもっともだ。理由がある。しかし現実は違う」とあなたは言うが,わたしは「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われた際にあなたが不満を表明した、その現実につき十分に妥当するモデルだったと思っています。しかし、あなたは妥当しないと言うのでしょう。そのあなたに、あなたの現実はこうなんだとこれ以上の言葉を費やして説得はできないように思います。


Q.10 Q.10の意味は不明瞭です。再度、説明をお願いします。しかし、Q.10以下に続いた文章の内容はわかります。同意します。


Q.11 「○○自体」というのは、有り得ない。ということをわたしはわかっているか?
Ans. 残念ながらわかりません。物自体が存在しているかどうか言い当てることができない。空間や時間という概念、平和という概念は、現実には存在していない。ということは言えます。「言葉は隣接するほかの言葉から考える必要もある」というのは、厳密には言えないのではないかということを指摘しておきます。記号pはpでしかないということです。(対象)記号は、トートロジーでしか言い表すことができない。トートロジーはナンセンス(無意味)と似ているが、違います。ただし、関数的に表現することは可能です。たとえば、りんごは赤くて、丸くて、果物で…という具合に。「考える必要もある」というのは、このやり方を指しているのでしょうか。しかし、一般言語を用いる限り、このやり方は厳密ではない。厳密には、りんごはりんごです。りんご自体です。


Q.12 (質問文省略)価格と価値は違うものとして、言い換えているのです。そのように書いているはずです。 


Q.13 (質問文省略)
Ans. わかりません。「貨幣がある程度代替しうるもの(価値)」という理解が誤りです。そうではないということを、書いたはずです。それは通俗的理解です。特に、現在では金本位制が廃止されたことで、なおさら貨幣が価値を代替してはいないということが理解されるはずです。貨幣が流通していることが、言わば貨幣の価値を決しているのです。あなたは、「価値を貨幣が代替したときの暫定的な数値で、測定するのは貨幣ではなくて市場のなんらかの機構」という言葉で、わたしの言う「貨幣が流通していることが、言わば貨幣の価値を決している」という内容を言っているのかもしれませんが、よくわかりません。わたしの今まで書いてきた文章でわからなければ、少し自分で勉強してみてください。

Q.14 (質問略)
Ans. 「貨幣の価格も市場によって左右され」ることと、「貨幣によって物の値が決まってしまう」という言い方は矛盾しません。そして、「物の値すら決して決まることはない」と言い方とも矛盾しません。わたしは、物価の決定についていったのであって、物価が変動しないなどとは言っていないつもりです。くわしくは知りませんが、マネタリストと呼ばれる学派のひとたちも似た言い方をするんじゃないか。

Q.15 (質問略)不変の理想は不必要というのは正しい。しかし、現実を批判する際にはある視座が必要であり、わたしはその視座を理想と名付けているということです。「で? だからどうしたの?」というのは、現実から乖離したモデルを抽出して批判することには意味がないということですね。わたしは、今でも正当な批判を行ったと思っています。なるべく現実に近いモデルを抽出して批判するに越したことはありませんが、なるべく現実に近いモデルだったと思いますし、違うというならそれまでのことです。Ans.5に書いたことです。

Q.16 (質問略)理想と併せて実効的な手段を語ることは、重要です。共産主義の理想と共産革命の手段、その後の共産社会のありようを論じることで、初めて共産主義の理想に説得力が備わるということでしょう。もはや、完全に柄谷(神さま)と同じことを語り、同じ問題に直面しているわたしですが、周知の通り柄谷はNAMをやりました。周知と言ってもよくフォローはしていないのですが、たとえば、統治機構としての権力を考えるとき、統治者をくじ引きで決めたらどうかと言ったわけです。権力くじ引き論。こんな、ある意味馬鹿なことしか言わなかった。それでも、柄谷の言う理念は現実の批判として有効だとわたしは思う。本人もそう言っている(笑) 実践から理念を修正することは正しい。しかし、そのことが理念を現実の追認にすぎないものにしてしまうなら、否定しよう。これが、わたしの態度です。あなたが言う、あなたの現実を追認する気はない。『「相手の文脈を愛する」ために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない』これは、あなたの現実ですか? それとも理念ですか? 『相手の文脈を愛せとは、相手の欲望を咀嚼し我が物にしろ/あなたの欲望を相手に咀嚼させ相手の物としろということですから。このことを階級闘争に置き換えると、あなたの階級的利益を相手に押し付けるか、相手の階級的利益を受け入れるかということです』このわたしの理想と開きがある。言わば、ノーガードで打ち合うのが理想だと言っているのです。もちろん、現実にはガードするし、逃げることもある。「それで良い」と言っているわけです。「自分の文脈もまた愛さなくてはならない。なぜならば、自分の文脈もまた、どのように都合よく解釈していたとしても、他人の文脈に連なるものだからです」という言い方は賛同できません。「相手の文脈を愛せ」の理想からかけ離れている。繰り返しますが、「相手の文脈を愛したい」という理想を掲げるならば、自分が相手の文脈から排除されても、なお「相手の文脈を愛せ」ということです。

Q.17 あなたのどこがナイーブだったのか?
Ans. Q.1に併せて言うと、『「相手の文脈を愛する」ために、相手の文脈を毀損するのがやむを得ない』や「自分の文脈もまた愛さなくてはならない。なぜならば、自分の文脈もまた、どのように都合よく解釈していたとしても、他人の文脈に連なるものだからです」という言い方で、自分の文脈の保持をなお問題にする点です。なぜ、そこまで自分の文脈の保持を問題にするのかがわからない。平和を問題するなら、同時に国防も問題しなくてはならないということでしょうか? しかし、「○○じゃなきゃ駄目だ」と言われることが、たとえばあなたという個体の生死を左右するわけじゃないでしょう。言わばあなたの一部分は、死ぬかもしれない。しかし、あなたの言うように人間の価値観は多様なのだから、あなたのすべての価値観が否定されるわけではない。あなたは、ある部分の相手の価値観を受け入れることで、あなたが更新される経験を得ることになる。別に、大した弊害はないのでは? あなたは、「大した」弊害があると考えているようですが。この点を、ナイーブだと言っているのです。「他人の文脈に連なるものだから」とは何でしょうか。ここがあなたの考えの肝なのかもしれないが、不明瞭です。大切なところのようなので説明、お願いします。


Q.18 わたしが、「相手の文脈を愛せ」という話をことさらあなたに向けるのがわからない。なぜか?
Ans. 確かに余計なお世話かもしれない。特に、あなたの現実に即した理念をわたしが語らないのならば。そして、わたしはこれ以上、あなたの現実に即した理念を語るつもりはあまりない。現実の追認になってしまうと恐れる。しかしいかにあなたが、わたしの言う理念を現実から乖離していると言っても、あなたの現実の批判になる点であなたの役に立つはずだとわたしは信じていた。今は、少し怪しい。特に、あなたが当該理念を了解済みだと言うので。しかし、Ans.16に書かれている懸念がある限り、あなたはかかる理念を了解していないと思う。だから、ことさら「相手の文脈を愛せ」と言ったし、言うのです。



Q.19 抑圧してくる人間に「言えることを言え」式の方法以外にいかなる方法があるか、またどう「言えることを言う」のかという問題を、わたしも抱えているか?
Ans. あなたとのやりとりで出てきた問題です。しかし、わたしはあまり悩まない。「言えることを言う」し、やり方はその場の直感に従う。これでさして、苦労はしてこなかった。抑圧する人間と出会っていない、あるいは逃げてきたからかもしれませんが、わたしには判断つきかねます。

Q.20 「様々な素材があって、絵画や小説という群れを作っている」あたりの文章について。
Ans. 「価値判定の原理も、常に現実の素材を鑑みて更新すべき」という考えには賛成です。「もちろん、ひとつの原理があるなんて言ってはいません」とわたしが書いたのは、あなたがそうした批判を行うと思ったからです。ただ、「キャシャーン」と「フォード」を同じ映画ジャンルで括るのは不当だと考えています。前回、書いたように二つの素材はあまりに異なっているように思えるからです。むしろ、「キャシャーン」の素材はアニメや特撮のそれと近しいようにわたしには思えました。「いまは何が映画としてより確定されているっぽいのか、それはどこで確定されているっぽいのか、その素材、その素材に注視しているのは誰なのか」とあなたが言うとき、映画ジャンルを現在の大衆にそう名指されるだけで、映画ジャンルと呼ぶべきだと言っているように思うのですがそうでしょうか? だとすれば、それはあまりに杜撰なジャンル論のように思えます。受け手を問題にする“狭義メディア論”とジャンル論を一緒にはできないと思います。「素材の問題はメディア論」というのは正しいと思います。だから、こと私小説に関しては、私小説私小説として受け止める需要層が問題にされる。私小説私小説として受け止めた需要層が、私小説に特有の文体を作り上げたのです。たぶん、あなたは「キャシャーン」「フォード」についても同じことを言おうとしている気がするのですが、しかし私小説論を19世紀のヨーロッパの本格小説と同じ言説で語るのがある面では完全に不適切なように、「フォード」について言い得る映画ジャンルという定義を、「キャシャーン」についてあてはめる必要はないのではないでしょうか? 「キャシャーン」には、違う名称が相応しいのでは? ということを、わたしは言いたかったのです。たぶん、小説ジャンルの中に、私小説を含んで良いと考えるなら、映画ジャンルの中に「キャシャーン」を含めても良いように思う。あるいは、私小説本格小説の双方に妥当する統一理論として小説のジャンル論を構築できるかもしれないように、「フォード」「キャシャーン」を含めた映画の統一理論を打ち立てることができるかもしれないし、そのことに意味があるということでしょうか? それは、必ず大きな仕事にならざるをえないでしょう。